抹茶の伝来
抹茶は私たち日本人にとって馴染み深いものです。たとえば飲料やデザートなど、抹茶はとても身近な存在といえるでしょう。
さて抹茶のはじまりをみると、中国において宋の時代(960年~1279年)に広く普及しました。そして12世紀の日本(平安末期~鎌倉時代)に日本に伝わり定着していきます。
抹茶伝来までの茶
日本では遣唐使によってはじめて茶の種が持ち帰られたといわれています。遣唐使は630年から894年まで続きますので、実に飛鳥・奈良・平安時代と260年以上続いたのです。奈良時代の行基や平安時代の最澄、空海、永忠たちの活躍もあり、唐からの茶はもっと普及していたはずです。
それではなぜ平安時代のおわりまで、茶はそれほど広まらなかったのでしょうか?
もちろん茶を飲む習慣はあるにはありましたが、一説によれば皇族や貴族など一部の特権階級だけが使える高級品(健康長寿の秘薬)であったことが理由のひとつに挙げられます。
たしかに自分たちには縁のない高価な薬と思えば、一般社会に広く普及することは望めないでしょう。ただ、種や木は日本にあるわけですから必要な理由さえあれば広く浸透していったと推測されます。
そして894年の遣唐使の廃止によって茶の供給が途絶えます。こうして茶の文化はいっそう下火になっていったと考えられます。
抹茶の伝来
しかし、そこから約200年後の1191年になると転機が訪れます。
そのきっかけとは、後に建仁寺を開く栄西禅師の持ち帰ってきた宋の抹茶と禅宗の茶礼です。
禅の教えには清規(しんぎ)という厳格な集団行動の決まりがあり、その中に茶礼が含まれているわけです。そのため臨済宗が広まれば茶の儀式もセットで普及していくことになります。
こうした一種の強制力というか「必要な理由」によって、茶の需要が特権階級以外の人々にまで広がったといわれています。
そして、栄西は「喫茶養生記」で茶の効能を説き、源実朝のみならず臨済宗の布教と絡めて広範囲に喫茶文化を奨励したのでしょう。なお、当時を伝える文献によれば茶筅らしき道具もあり、石臼もどうやら日本に伝わってきています。
こうして抹茶と道具を含めた茶礼が広まったと考えられます。
茶の湯のはじまり
さて、抹茶と茶礼といえば現代に続く「茶道」を思い起こす方もいるでしょう。千利休によって大成される茶の湯を始めたのは一体誰なのでしょうか?
それは室町時代の茶人 村田珠光(むらた しゅこう 1423年~1502年)です。珠光は「屏風の虎退治」で有名な一休宗純から禅を学び、茶と禅の精神が一体となった「茶禅一味」の境地にたどり着きます。
また、将軍お抱えの美術家集団である同朋衆(どうぼうしゅう)の能阿弥(のうあみ 1397年~1471年)と交流を持ち審美眼を鍛えたといわれます。
そして8代将軍 足利義政の知遇を得た珠光は、弟子に宛てた「心の文」で唐物の良さを理解したうえでの枯淡の境地を説きます。珠光はわび茶のはじまりともいわれた人物です。
珠光の言葉で「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉にわびの精神があらわれています。
ただ晴れ渡った空の月だけ眺めても、月にかかる雲がなければ趣もなくつまらないという事でしょう。高価な唐物一辺倒の茶会に疑問を投げかけ、和物も含めその不完全さに簡素な美を見出す姿勢がみてとれます。
こうしてわび茶の精神は武野紹鴎(たけの じょうおう 1502年~1555年)に受け継がれ、その弟子である千利休(せんの りきゅう 1522年~1591年)により完成をみます。
彼らは喫茶を単なる習慣から、精神性を含めた自己研鑽まで高めました。ここから現在に通じる茶道が花開きます。