丹波焼(兵庫県篠山市今田町) JR西日本 福知山線「相野」駅から車
丹波(たんば)は平安時代末から現代まで続く歴史のある窯業地です。その歴史の長さから中世六古窯(陶磁学者 小山富士夫の命名)のひとつとして知られます。
現在は相野駅から車で10分ほどの今田町立杭(こんだちょうたちくい)周辺に50軒を超える窯元が集まっています。いくつもの山々に囲まれた自然豊かな窯場です。
丹波焼の歴史
平安時代末から江戸時代末まで焼かれたものを古丹波(こたんば)と呼びます。この時期を大きく二分すると、中世(平安末~桃山)は穴窯が主流で小野原荘という地名から「小野原焼(おのはらやき)」と呼ばれた時代。そして近世(江戸時代 1610年ごろ~江戸末)は登窯が広く普及し、「丹波焼」「立杭焼」という呼称が使われる時代に区別されます。
中世の作品は紐づくりによる甕・壺などが主に作られました。紐状の粘土を積み重ねて作るため、大壺などは乾燥させてから次々に紐を積んでいきます。そのため形状は自然な歪みや継ぎ目の跡が見られ、柔らかな雰囲気を醸し出しています。
中世の作品は常滑・越前・信楽・備前のように無釉焼き締めの器肌に自然釉が流れるものが伝世しています。自然釉には緑の濃淡がみられ豪快に流れている景色が魅力です。
自然釉が大量にかかる理由は土の特性および穴窯の熱効率の問題といわれています。熱効率が悪いと長期間(半月を要するとも)焼かなければならず、結果として大量の薪の灰が付着したと考えられます。
やや赤みを帯びた丹波の土色と、緑の自然釉との対比が見どころといえます。
近世に入るとロクロの作品が増え登窯による大量生産が可能になります。また、一般的な連房式登窯よりも背が低く縦長の蛇窯(鉄砲窯・龍窯)も丹波の特色といえます。穴窯より熱効率が改善され、施釉陶器と様々な器形をもつ作品が焼かれています。
この時代には、大名茶人 小堀遠州(こぼり えんしゅう 1579年~1647年)や茶人からの注文による茶陶も数多く焼かれています。
近世の代表的な装飾としては赤土部(あかどべ)が挙げられます。鉄分を含む化粧土のことで窯変を伴い赤~紫を帯びた褐色に発色します。陶器の表面を滑らかする事が目的で、赤土部の上にかかる自然釉は美しい青白色~青紫色を呈します。
これら古丹波の名品をみるには丹波古陶館がよいでしょう。中世のやや暗色の焼き上がりのものや赤みを帯びたもの、江戸初期の赤土部作品から茶陶、灰釉もの・白丹波・黒丹波など300点を超える古陶磁が収蔵されています。篠山口駅が最寄りとなるので、立杭の窯元エリアと離れますが、丹波焼の特色が最もよくわかる美術館です。
丹波焼の特徴
初期の出土品に耳付の装飾を持つ壺や広口の甕、三筋壺があります。三筋壷は肩・胴・腰のあたりに三本線をあしらった壺のことで初期常滑の代表的な形です。
さらに、還元焼成された暗い色調の須恵器より完成度の高い焼き味と、甕や壺には外側に反り返る口作りなど、常滑との類似点があります。
したがって丹波は常滑(とこなめ)の影響下に生まれ、はじめから完成度の高い作品を産出していたという説が有力視されています。
前述の通り江戸期には多様な施釉陶器も作られました。一見すると丹波と分からない作品もたくさん作られます。たとえば江戸中期からは50種を超える徳利が作られました。
赤土部のほか白化粧土(いわゆる白丹波)に海老を描いた海老徳利、黒釉の傘徳利、卵色釉のローソク徳利、線模様をイッチン(スポイト描き)で描いたえへん徳利など・・・丹波の徳利はその釉調と装飾、形の多様性で知られます。
また、茶陶としての丹波焼は茶入れと水指し、茶碗の名品が伝世しています。こうした歴史により現代でも茶入・茶碗・水指しなどの茶器を作る窯元がいくつもあります。
こうした丹波焼の多様性は現代に受け継がれています。大別すると中世のような焼き締めを作る窯元と、江戸期以降に見られるような施釉陶器を作る窯元に分かれています。
多くの窯元が密集する立杭エリアには明治時代から稼働している47mの登窯があります。隣にある大アベマキをはじめ近隣の自然に囲まれた風情を楽しめます。
現代の作品を見るには「立杭陶の郷(たちくい すえのさと)」をお勧めします。敷地内にある「伝産館」では古丹波と現代作家の展示を見ることができます。また54軒の窯元の作品が展示されている「窯元横丁」では、ブースごとに旬の作品が展示販売されています。窯元の地図ももらえるので、作品を見て気に入ったものがあれば連絡をしてみるとよいでしょう。
隣接する兵庫陶芸美術館も、陶磁器の特別展が充実しています。ただし展示は丹波焼に限りませんので、訪問前に問合せていただければと思います。