笠間焼(茨城県 笠間市) JR東日本水戸線「笠間」駅周辺
笠間は隣接する益子よりも歴史が古い窯業地です。笠間駅から笠間芸術の森公園まで歩くと販売店と窯元が何軒もみられます。
公園につくと窯業指導所、笠間工芸の丘、茨城県陶芸美術館が敷地内にあります。これらの施設を見ることで笠間の一面がわかるでしょう。
特に笠間はその自由な作風で知られています。たとえば練上げの人間国宝 松井康成(まついこうせい)、採泥の和田守卑良(わだもりひろ)、布目なら伊藤東彦(いとうもとひこ)など陶芸作家をみれば笠間の多様性があらわれています。
工芸の森は松井康成の作品がみられるほか陶芸体験もできます。多くの作品を鑑賞するなら陶芸美術館がお勧めです。松井康成と板谷波山の専門コーナーのほか各地の巨匠作品が一堂に会します。
笠間焼の歴史
笠間焼は開窯から約90年のあいだ箱田焼(はこだやき)という名称で通っていました。創始者である久野半右衛門道延(くの はんうえもん みちのぶ)が築窯した場所が当時の箱田村だったことに由来します。
半右衛門は安永年間(1772年~1781年)信楽の長右衛門の滞在中に指導を受けて箱田村に久野窯を築きます。そして半右衛門の婿養子である久野瀬兵衛益信(せべえ ますのぶ)が、信楽から吉三郎という陶工を招き運営を続けました。
また天保年間(1830年~1840年)山口勘兵衛が開窯した宍戸焼(ししどやき)も笠間焼のもう一つの起源とされています。
ともに文久年間(1861年~1864年)には笠間藩の御用焼となり、他に4つの窯とあわせて計6か所の窯が藩の御用窯に指定されています。これを仕法窯(しほうよう)と呼び、そこでは黒釉・糠白釉(ぬかじろゆう)を使った甕・壺・すり鉢などの日用雑器が作られました。
笠間焼の発展と停滞
笠間焼の名を広く世に知らしめたのは、中興の祖といわれる田中友三郎(たなか ともさぶろう)です。もともとは美濃の行商人でしたが、笠間に定住して1869年に関根源蔵(せきね げんぞう)の窯を借りて作陶と販売を行います。
田中は箱田・宍戸などの陶器を「笠間焼」と総称して各地に売り込みました。
主な販売品は柿釉のすり鉢と糠白釉の茶壺といわれています。その販路は関東・東北・北海道まで拡大しました。その結果「笠間焼」という名前が定着したといわれています。
しかし、大正時代に入ると人々の生活において燃料が木炭から石炭に変わります。そのため、高温に耐えうる金属製品やプラスチック製品に需要を奪われ、陶器の出荷が伸び悩みます。
こうした要因は益子と似ていますが、様々な資料を見ると電鉄の発達による過当競争も指摘されています。つまり交通網の発達で美濃をはじめ多様な陶器が流通して競争が激化したためです。こうした状況をうけ戦後は官民一体で窯業を振興する動きがおこります。
戦後から現在
まず1950年 窯業指導所が設立され後任の育成と民芸陶器への転換を奨励します。本指導所は2016年に笠間陶芸大学校への組織変更を検討しています。
さらに市が1972年に窯業団地を作ったことで県外からの移入者が増えました。こうした風土が多様化した笠間焼を生みだします。毎年開催される陶炎祭(ひまつり)ではその多様性をみることができます。益子のようなある種の類似点は見られず作家ごとに大きく変わる作風がみられます。
また、2013年には乾杯条例が制定されました。これは地酒を笠間の酒器でいただこうというユニークな条例です。こうした動きと多岐にわたる作風が笠間の魅力といえます。