京焼(京都府京都市 東山区清水) 京阪電気鉄道 京阪本線「清水五条」駅周辺
清水五条の地
東山区は京焼発祥の地といわれます。江戸時代初期には三条の粟田口焼(あわたぐちやき)、清水の清水焼(きよみずやき)、五条坂の音羽焼などが黎明期の窯として知られます。
中でも清水・五条はその中心地として栄え、現代では京焼のことを清水焼と呼ぶこともあります。
清水五条駅を降りると五条大橋があります。ここは古くは牛若丸と弁慶の出逢いの地として語り継がれています。
そして清水寺に向かう五条通りには若宮八幡宮があります。ここは陶器神社とも呼ばれ「清水焼発祥之地 五条坂」との石碑が建っています。
この地は現代陶芸家の清水卯一(しみず ういち)の生家のほか、清水六兵衛(きよみず ろくべえ)窯など、たくさんの見どころがあります。
さらに六兵衛窯の近くには河井寛次郎(かわい かんじろう)記念館。清水寺に向かう途中の茶碗坂には、近藤悠三(こんどう ゆうぞう)記念館があります。
清水卯一氏は鉄釉陶器の人間国宝です。そして清水六兵衛家は260年以上続く有名な陶家であり、近藤氏は染付の人間国宝として知られています。河井氏も著名陶芸家として必ず名が挙がるほどの大家で、中期の民芸風の作品から後期の抽象的作風が特徴です。
このように清水五条界隈は京都の現代巨匠を知るのにうってつけの地域といえます。彼らの作風は京焼の範疇に含まれませんが、雅趣あふれる京焼と陶磁器の一大産地である風土は巨匠たちに影響を与えたはずです。
五条坂にはいると緩やかな坂道をのぼります。戦前はこの傾斜を利用して登窯がいくつも稼働していたといわれます。現在は大気汚染の問題など各種規制により閉窯しています。
坂のあちこちに販売店があるので現代の京焼をたくさん見れることでしょう。また市内には回り切れないほど多くの歴史的建造物と美術館があります。
京焼の歴史 色絵陶器から色絵磁器へ
その昔、京都では奈良時代の僧 行基が五条付近に窯を築かせたともいわれます。行基以前にやきものは作られていますが、京焼とは桃山末期から江戸時代にかけてはじまったものを指します。
京焼のはじまりは大きく分けると仁清・乾山の「色絵陶器」の流れと、潁川以降の「磁器」の流れに二分されます。
【色絵陶器の隆盛】
野々村仁清(ののむら にんせい)生没年不詳。はじめ三条の粟田口焼や丹波、瀬戸で修行をします。京都に戻って仁和寺に窯を築いて御室焼(おむろやき)をはじめます。仁清の名は仁和寺の「仁」、俗名の清右衛門「清」をあわせたものです。
仁清の弟子に尾形乾山(おがた けんざん 1663年~1743年)がいます。兄はかの尾形光琳です。光琳に絵を描かせるため広く余白を取った角皿は色紙皿とよばれました。乾山は自分で作品を作る以外にも、兄との合作をはじめプロデューサーとしても才能を発揮しました。
こうして仁清から乾山の時代には色絵陶器が数多く作られました。その他、この時代の清水焼は作者も分からないものが多く、その雅な色絵陶器は「古清水」と呼ばれ伝世しています。
【京都初の磁器製作】
奥田潁川(おくだ えいせん 1753年~1811年)は京焼ではじめて本格的な磁器を作りました。活躍したのは仁清・乾山より後の時代で、当時流行したといわれる中国の呉須赤絵・古染付の写しを作っています。
その門弟には青木木米(あおき もくべい 1767年~1833年)、仁阿弥道八(にんなみ どうはち 1749年~1804年)がいます。木米は色絵の美しさから仁清・乾山と並び京焼の三名工と称されます。道八は高橋道八と呼ばれ、現代も襲名され陶業を続けています。
その後は永楽善五郎(えいらくぜんごろう)家の11代 永楽保全(ほぜん 1795年~1854年)によって染付・交趾・金襴手の作品が作られました。
このように、まずは仁清から乾山を経て色絵陶器が流行しました。そして潁川から保全までに大成された磁器作品が隆盛を極めます。
きらびやかで雅趣あふれる色絵陶器と色絵磁器。江戸時代に興ったこの2つの潮流が現代の京焼に多大な影響を与えています。