上野焼(福岡県福智町)
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上野焼(福岡県田川郡福智町) 平成筑豊鉄道 伊田線「赤池」駅から車

 

上野焼の歴史

上野焼(あがのやき)は福智町(旧 赤池町)で焼かれる陶磁器を指します。1602年 細川忠興が小倉に入封したのち、朝鮮人陶工の尊楷(そんかい)を招いて焼かせた小倉藩の窯がはじまりです。

 

尊楷は文禄・慶長の役(1592年~1593年・1597年~1598年)の時期に加藤清正が連れて帰ったといわれています。

 

初代藩主 細川忠興(三斎 1563年~1645年)は利休七哲のひとりで茶道に造詣の深い大名として知られます。上野焼は、大名茶人である小堀遠州(こぼり えんしゅう 1579年~1647年)好みのいわゆる遠州七窯のひとつに挙げられています。

 

その後、1632年からは小笠原忠真が小倉に入封し細川忠興は肥後に移ります。その後は小笠原家の御用窯として幕末まで発展します。

 

こうした流れから、上野焼は茶陶に関係の深い窯業地となったのでしょう。

 

ちなみに初期の窯は釜ノ口窯(かまのぐちがま)、岩谷高麗窯(いわやこうらいがま)、皿山本窯があります。これらの古窯は現在20数軒の窯元が集まる上野狭周辺に築窯されました。

 

赤池駅から車で10分ほどの距離で、福智山と鷹取山が臨める地域です。また直方市との県境でもあり、上野狭近くの山中には高取焼発祥の窯として知られる宅間窯跡があります。車道から見ると下に池があり、手前には「高取焼発祥の地 永満寺宅間窯跡」との石碑が建っています。

 

明治時代になると廃藩置県により窯元は次々に廃業していきます。明治末~大正~昭和のはじめには熊谷本窯の1軒だけになったこともあったそうです。戦後は陶磁器の需要が増え、現在のように多くの窯元が陶業を営むようになりました。

 

上野本窯跡

熊谷無造窯(くまがえむぞうがま)脇にある本窯跡。

 上野焼の特徴
釜ノ口・岩谷高麗窯では少量の茶陶のほか日用品が焼かれていたとされます。一方、皿山本窯では小笠原家のもと現在のような作風のものが作られました。

 

たとえば白地に緑青釉(ろくしょうゆう)や三彩釉の流しがけを施した作品のほか、紫蘇釉(しそゆう)を使った紫色の陶器などです。

 

その中でも特に印象的なのが緑青釉です。これは緑がかった青色で上野焼といえばこの色が特徴的といえます。この地では末広鉱山や畑銅山から豊富な銅と緑青がとれました。こうして銅を用いた釉調が代名詞にもなったわけです。

 

また、鉄釉の一種である紫蘇釉も特徴的といえます。紫がかった作品は紫蘇手と呼ばれます。ともに灰釉がベースで酸化銅を加えれば緑(青)釉、酸化鉄を加えれば鉄釉となります。これら複数の釉薬をかけて焼かれた作品では多様な釉調と窯変が見てとれます。

 

もう一つの特徴はほぼ絵付けが見られないところでしょう。そのかわりに釉薬によって様々な表情をあらわしています。茶陶として名高い上野焼ですが、日用食器においてもその多彩な釉色が映えます。

 

各窯元の作品を見るには上野焼陶芸館がよいでしょう。それぞれ展示品で上野の特徴が分かるうえ、上野焼協同組合に加入している窯元の地図がもらえるので窯巡りの前にチェックしておけば万全です。

 

 

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