小石原焼(福岡県朝倉郡東峰村) JR九州 日田彦山線「大行司」駅から車
小石原焼の起源
小石原焼(こいしわらやき)は発祥の地である旧 小石原村中野の地名にちなんで、はじめは「中野焼(なかのやき)」とよばれていました。
その発祥には諸説あり、1682年に福岡藩主 黒田光之(くろだ みつゆき)が伊万里から陶工を招いて開窯させたのを起源とする説。
また高取八蔵(たかとり はちぞう:初代八山)の孫である高取貞正(たかとり さだまさ)が、1669年頃(一説では1684年ごろ)から日用品を作っていたとする説もあります。江戸期の文献によれば伊万里の陶工をそのはじまりとしています。
ちなみに中野上の原古窯跡からは、陶器の破片とともに磁器が出土しています。したがって、既に小石原で焼かれていた高取焼(1665年から小石原鼓窯がある)とは違い、磁器の生産を意図していたと考えられます。
しかし磁器の産出は長く続かず、現在のように陶器を主に焼くようになります。良質な陶石と白色粘土が採れた記録もなく磁器生産には向かなかったと推察されます。
いずれにせよ伊万里の陶工と高取家は、藩命による協業関係があったと考えるのが自然でしょう。中野焼は昭和に入ると小石原焼と呼ばれるようになります。
小石原焼は柳宗悦の民芸運動(大正末~昭和初期)で紹介され、全国的にひろく認知されるようになります。姉妹関係にある小鹿田焼(福岡県日田市 1705年~)とともに用の美を高く評価されました。その伝統的な技法は現代まで多くの窯元に引き継がれています。
小石原焼の特徴
現在、小石原焼の窯元は50軒ほどあります。窯の数も多いため車での移動が必要となるでしょう。
装飾の特徴としては飛び鉋(とびかんな)が挙げられます。これはロクロを回しながら化粧土をかけた器面に鉋の先をあてる装飾技法です。鉋が器面にあたり弾かれるたびに化粧土を掻き落とします。
そして、この連続した掻き落としの痕が飛び鉋の装飾となります。鉋は柱時計のゼンマイを使いやすい大きさに切ったものが一般的です。
その他には刷毛目と指描き、櫛目、釉の流し掛け・掛け分けなどが主な技法です。これらは小鹿田焼にもみられます。というのも、江戸時代に小石原の陶工が、小鹿田焼を創始した経緯から技法と作風に共通項があるのです。
釉薬は化粧土の上に施す透明釉、黒釉、飴釉、緑釉、藁灰釉など種類が豊富です。土は鉄分を多く含む黄土で粘りが強く、焼きあがりはおおむね褐色になります。
不純物を丁寧に水簸(すいひ:水とふるいを使って余分なものを取り除くこと)して、じっくり寝かせることで薄作りのできる土に生まれ変わります。
小石原焼は窯の数も多いので作品にバリエーションがあります。窯ごとの作品をまとめて見るならば「小石原鼓共同展示場」と「道の駅小石原」がよいでしょう。窯元の地図も手に入ります。
また、小石原焼伝統産業会館も窯元の作品を見ることができます。加えて歴史に関する資料が充実していること、伝世品の展示があるのでお勧めします。登窯が見れるうえ陶芸体験もできるので、多角的に小石原の風土を体験できるでしょう。