猿投窯(さなげよう)とは
猿投窯
猿投窯(さなげよう)は古墳時代から鎌倉時代にかけて愛知県で稼働していた古窯群のことです。その古窯群は1,000基を超える規模で、名古屋市の東部から瀬戸市南端、豊田市西部から刈谷市・大府市まで約20km四方の地域に分布していました。
とりわけ名古屋市と日進市をはじめ多くの窯跡が密集しています。猿投山(さなげやま)の西南部に広がった古窯跡は山の名前から猿投窯と名付けられました。
須恵器とは
猿投窯は須恵器(すえき)という硬質の土器を作っていました。須恵器は朝鮮半島から伝播したやきものです。それ以前の日本各地では手びねり(ロクロを使わない手作り)と野焼きが一般的でした。
須恵器の技術が伝播すると、人々は手びねりとロクロで成形し、地下に穴を掘った穴窯で作品を焼きました。従来の500℃~800℃で焼く軟質土器に対して、須恵器は1,000℃を超える高温で焼かれたため硬く焼き締まっています。無釉焼き締め(=炻器:せっき)と灰釉を用いた作品がそれぞれ出土しています。したがって土器でありながら炻器とも陶器とも分類できる点がややこしいところです。
須恵器は灰色~黒褐色に焼かれた器肌がひとつの特徴といえます。縄文・弥生土器・土師器(はじき)が赤みのある軟質土器であるのに対し、須恵器は高温の還元焼成で焼かれた暗色の硬質土器が大半を占めます。
作風における特色は無釉の食器である山茶碗や、灰釉・緑釉による日本ではじめて施釉したやきものといえます。須恵器は従来の日本にはなく、朝鮮半島から渡来した技術です。しかし、製作した人々は従来の土器も作っていたと考えられますので、この表では土師器の系統から分岐させました。
立地的にも猿投窯は要衝にあたり、陸路・海路によって運ばれた灰釉・緑釉の須恵器が各地の寺院から出土しています。鎌倉時代に入ると瀬戸窯の施釉陶器が隆盛となり、猿投窯の生産は次第に衰微していきます。無釉の山茶碗や小皿を生産して東海地方の一部にのみ流通しますが、14世紀に入ると生産を中止します。
猿投窯は須恵器の生産地として、その規模のみならず稼働年数が約900年の長きにわたりました。これは古代須恵器系の窯跡である陶邑窯(すえむらよう)、牛頸窯(うしくびよう)と比較しても歴史の長さがみてとれます。
須恵器 古窯群
名称 | 現在地 | 稼働期間 | 規模 |
---|---|---|---|
猿投窯 (さなげよう) |
愛知県名古屋市 周辺 | 5世紀~14世紀ごろ | 20km四方。約1,000基以上 |
陶邑窯 (すえむらよう) |
大阪府堺市 周辺 | 5世紀~10世紀ごろ | 東西15km南北9km。約1,000基以上 |
牛頸窯 (うしくびよう) |
福岡県大野城市 周辺 | 6世紀半ば~9世紀ごろ | 4km四方。約300基以上 |
このように猿投窯は当時最先端であった須恵器を作り、その規模の大きさにより近隣の常滑・瀬戸をはじめ多くの窯業地に影響を及ぼします。
古窯の話になると「○○窯は猿投窯の流れをくんだ~」ですとか「猿投窯のような古代須恵器系の~」といったフレーズがよく出てきます。日本の窯業地の発祥および古窯を知る上で猿投窯は非常に重要といえます。