小鹿田焼(大分県日田市) JR九州 日田彦山線「大行司」駅から車
小鹿田焼の歴史
小鹿田焼(おんたやき)は1705年に小石原焼(こいしわらやき)の陶工 柳瀬三右衛門(やなせさんえもん)を招いて開窯しました。
地元の黒木十兵衛が資金を調達し、坂本家が土地を提供しています。そして柳瀬三右衛門は登窯と作陶技法を指導しました。
したがって小鹿田焼は小石原焼の影響を強く受けているといえます。
また、小石原焼は高取焼とも関係が深いため小鹿田焼は高取・小石原の流れをくむ陶器といえるでしょう。
(参考記事 : 小石原焼(福岡県朝倉郡東峰村))
小鹿田焼が広く世に知られるきっかけは柳宗悦(やなぎ むねよし)の民芸運動(大正末~昭和はじめ)がきっかけといわれます。柳氏は昭和のはじめに小鹿田を訪れています。
その純朴な美しさに感動した氏によって、小鹿田は紹介され一躍有名になりました。民芸運動の同志であるバーナード・リーチも小鹿田焼の里に滞在して作陶した作品が残っています。
ちなみに小鹿田は山奥に位置することから、鬼が住むという言い伝えもあります。19世紀ごろまで「鬼田」と表記されていたようです。また年貢を免れるための隠し田(隠田:おんた)があったという話もあります。
さて小鹿田焼の窯元は現在10軒あります。移動手段としてはバスの本数が少ないため、車で移動するのがベストです。
道中であたりを見回すと、粘土質の層がむき出している場所がいくつもあります。これは花崗岩(かこうがん)などの岩石が風化して、そこから出来る粘土が豊富であることが分かります。実際に手に取ると、粘りがあって握り込めば簡単に固まります。
山に囲まれた小鹿田の里に着くと唐臼の音が聞こえてきます。いたるところで川の流れを利用して、乾燥させた陶土を細かく粉砕しているのです。この唐臼の音と天日干しされる素焼前の作品群が里の日常を物語っています。
なお、小鹿田焼の里は「重要文化的景観」に指定されています。まわりに広がる自然と唐臼の音がとても美しいところです。
歩いて里の中心地にいくと、窯元が共同で使う登窯があります。聞くところによると、陶器祭りである小鹿田焼民陶祭(みんとうさい)が窯を使うピークとの事です。8月ごろから10月の祭りに備えて里中で準備にとりかかります。
小鹿田焼の特徴
現在もなお小鹿田焼は日用品を作り続けています。一子相伝とされる技法は代々受け継がれ、小鹿田焼の特徴を現代に伝えます。
その技法の中でもとりわけ特徴的なのは飛び鉋(とびかんな)の装飾です。ロクロを回しながら白化粧をした器面に鉋の先をあてます。すると鉋が白化粧を一定の間隔で掻き落として模様となります。
化粧土には黒・黄色のものも見受けられます。工具には反発性の良い柱時計のゼンマイを鉋として使うのが一般的です。
「飛び鉋をほどこした飯椀」
その他には刷毛目(化粧土を刷毛で塗ったもの)、黒釉・飴釉の器面にイッチン(スポイト等で筒描きしたもの)、釉薬の流し掛け、櫛(くし)で模様をほどこす櫛描きなどがあります。
飛び鉋と並んで打ち刷毛目(うちはけめ)も特徴的な装飾ですね。化粧土を塗った作品をゆっくりロクロで回し、刷毛でトントン押さえることで連続模様を施します。
ちなみに巻頭のリーチ氏の作品は白土を刷毛塗りし、飛び鉋に釉(セイジ釉と飴釉)の流し掛けが見られます。
そして、釉薬は化粧土の上に施す透明釉(フラシ釉)・飴釉・黒釉のほか、セイジと呼ばれる緑釉が主なものです。土は鉄分を多く含み有色で焼きあがると褐色を呈します。作品をみると個々の銘や窯印はなく「小鹿田」とシンプルな判がついてあるだけです。
作業工程や小鹿田の歴史を知るには、小鹿田焼陶芸館が参考になるでしょう。江戸時代以降の伝世品のほか、バーナード・リーチ作の大皿以外にも壺が展示されています。