美濃焼(岐阜県東濃地方)JR東海 中央本線「土岐市」「多治見」駅ほか
美濃焼(みのやき)は岐阜県東濃(とうのう)地区で作られる陶磁器の事を指します。東濃地区における西部、すなわち土岐市(ときし)・瑞浪市(みずなみし)・多治見市(たじみし)・可児市(かにし)を中心に窯業が盛んな地域であり、現在の土岐市は日本一の陶磁器生産量を誇ります。
美濃焼ははじめ瀬戸焼の一地域として捉えられていました。しかし桃山時代から瀬戸と異なる独自の発展を遂げ、明治時代以降に瀬戸と区別して認識されるようになります。
美濃焼の歴史
東濃地区には古代から須恵器(すえき)の窯がありました。土器から発展した須恵器にはロクロが使われ、地中に穴を掘った穴窯で焼かれました。燃料の灰が自然釉となってうつわに流れるのが特徴です。これらが美濃から遠方に流通し始めるのは10世紀の半ばごろからです。
愛知県の猿投山(さなげやま)を中心とした猿投窯の拡大により、美濃にも灰釉陶器の技術が伝わります。そして東濃窯(美濃窯:みのよう)と呼ばれる100基を超える窯業地帯が形成されます。
はじめは猿投窯の流れをくんだ灰釉陶器を焼きますが、無釉の山茶碗の生産が盛んになります。美濃窯の多くは山茶碗を作り、手間とコストのかかる灰釉陶器は一部の窯に限られました。この山茶碗と灰釉陶器を作る流れは15世紀まで続きます。
15世紀 室町時代になると瀬戸の施釉技術が伝わります。そして土岐市に瀬戸系の流れをくむ施釉陶器の窯が築かれました。しばらくすると瀬戸と同様に穴窯から大窯への移行が進み、東濃地域の諸窯はより生産性の高い大窯を採用するようになります。
復元された大窯。画像は岐阜県土岐市にある元屋敷(もとやしき)窯跡
室町時代から安土桃山時代は茶の湯が一般社会に根付いた時期でもあります。また、「瀬戸山離散(せとやまりさん)」という現象によって瀬戸から多くの陶工が美濃に移入してきた時期でもあります。
こうした時代背景の中桃山時代に美濃独自の桃山茶陶が生まれます。桃山陶は木曽川付近の各地に運ばれ、伊勢湾からはさらに広範囲に渡って流通しました。
美濃桃山陶とはすなわち「黄瀬戸(きぜと)」「瀬戸黒(せとぐろ)」「志野(しの)」「織部(おりべ)」です。これらは1575年以降に作られたと見られ、当時の茶の湯の宗匠は千利休(せんのりきゅう)でした。
利休が秀吉の命により1591年に自害すると、大名茶人である古田織部(ふるた おりべ)が宗匠の座につきます。
茶陶の成立時期をみると黄瀬戸・瀬戸黒がほぼ同時期といわれ、その後に志野、織部の順に作られたようです。ただし成立年代にはいくつもの説があるため確定していません。この順番が正しければ黄瀬戸と瀬戸黒は千利休と古田織部の時代、志野と織部は古田織部の時代に成立しています。※画像は現代作家の作品
黄瀬戸(きぜと)
黄瀬戸は16世紀後半に作られたとされます。器種は向付や小鉢、皿、香合、香炉などが挙げられます。食器や蓋物を意図して作られた作品の中には茶碗に転用されたものがあります。
黄瀬戸の特徴は黄色に焼きあがった色と端正な形です。古瀬戸のように薄緑に近い発色の作品もありますが、おおむね黄色の釉調です。
釉薬の表面にみられる、柚子の実のような微細な凹凸を「柚子肌」とよびます。また濃い黄色のものを「油揚げ肌」と珍重する人もいます。
釉薬だけの作品もあれば、装飾があっても単純な線描や椀の胴部に紐のような段をつける程度です。また椀などの形は非常に端正で、後述の織部のような歪みはほぼ見られません。
加彩技法としては胆礬(たんぱん)と鉄彩が代表的なものです。胆礬は硫酸銅が原料で緑色に発色します。表の胆礬が裏までにじみ出たものを「抜け胆礬」とよんで賞玩します
。一方、鉄彩は鉄が主原料で茶褐色に発色します。黄・緑・茶褐色の対比が見どころでしょう。志野が作られると徐々に減少し、織部が作られた17世紀初頭にはほぼ見られなくなります。
瀬戸黒(せとぐろ)
瀬戸黒は黄瀬戸とほぼ同時期に作られたとされます。一説では天正年間(1573年~1593年)に作られたといわれ「天正黒」ともいいます。
黄瀬戸が食器中心だったのに対し、瀬戸黒は茶碗に特化しています。その黒色は「引き出し黒」とよばれ、高温で真っ赤になった茶碗を窯から引き出して急冷します。
温度が急激に下がることで釉薬の鉄分が黒色をあらわすのです。高台は総じて低く、釉薬は高台回りを除いてかけてあります。瀬戸黒高台の大部分がこうした「土見せ」となっています。
形は口縁から腰までほぼ垂直に落ちた筒型のものが大半で、一部に腰に丸みを持たせたものがあります。また、口縁はまっすぐなものや山道(ゆるやかな起伏)のあるものと様々です。また、見込に茶だまりを作ったり、表面の箆目(へらめ:箆で削った跡)を残すなど見どころも設けています。
志野(しの)
志野が作られたのは1580年~1600年ごろとされます。志野釉と呼ばれる長石釉をかけた白色系の釉調が基本的なものです。志野釉は白く発色しますが白単色のものは稀です。その多くは胎土や鉄絵の鉄分が緋色を呈します。
白と緋色の対比が美しく、釉の表面にできるピンホールにも独特の味わいがあります。こうした要素が志野をより奥の深いものにしています。
もちろん器面は白と緋色に限らず、技法により紅志野、鼠志野、赤志野、練上志野、絵志野と区別され多様な装飾が特徴です。
▽参考▽ 陶片左:鼠志野(ねずみしの) 右:志野
その種類もさまざまで茶碗・水指・建水・花入・香炉・酒器・香合・皿・向付・鉢など多岐にわたります。中でも茶碗は代表的なものとして挙げられます。形は筒型のものが比較的多く、口縁から腰まではゆるやかな曲線を伴うものがほとんどです。
上から見れば楕円のものや歪みを伴う作品が多く、口縁には山道が見られるのが特徴です。志野茶碗は端正すぎず全体的に動きがあります。
また、鉄絵を用いたことも大きな特徴と言えます。鉄絵は鬼板など鉄を含む材料で作った絵具です。これで絵を描いて釉薬をかけて焼くと鉄絵が浮かび上がります。その絵付けと造形の伸びやかさは従来になかったものです。
鉄絵が描かれた志野の陶片。伸びやかな鉄絵は志野・織部の特徴。
織部(おりべ)
織部焼は慶長年間(1596年~1615年)に作られました。桃山陶の特別展でよく見られる織部焼ですが、江戸時代初頭から焼かれたのがほぼ通説となっています。この時期の茶の湯の宗匠、古田織部(本名:重然。役職名:織部)が名の由来とされます。
重然は「ひずみたるもの、へうげたるもの(=ひょうきんなもの)」と織部焼を定義しています。
さて、江戸時代に入ると従来の大窯に替わって登窯が導入されます。織部焼が作られたのは元屋敷窯という美濃で最大級の登窯です。14の焼成室をもち全長は24mありました。
この窯は美濃久尻村の陶工 加藤景延(かとう かげのぶ)によって築かれました。景延は唐津地方の浪人 森善右衛門(もり ぜんえもん)から窯の話を聞いて唐津に赴きました。当地の登窯の技術を美濃に導入した人物として知られます。なお元屋敷窯は景延一家の屋敷があったのが名の由来です。
器種は皿・小鉢・向付などの食器類と茶碗・花入・水指・茶入などの茶陶が挙げられます。いずれもその奇抜な形がひとつの特徴といえます。従来なかった型で作られた食器や、歪められた沓形の茶碗(沓茶碗)などが代表的なものです。
次に挙げられる特徴としては織部釉と呼ばれた銅釉です。銅化合物を含む釉薬で緑色に発色します。織部焼のトレードカラーといえます。ただ、斬新な形と装飾が特徴の黒織部などには緑釉は使われていません。また志野と同様に鉄絵による下絵をしたことも大きな特徴です。
褐色の鉄絵に緑の織部釉の向付。釉の部分には初期織部独特の縄目がみえる。
現代の東濃エリア
この地域は桃山陶のみならず、現代陶芸界においても多数の人間国宝を輩出した地域として知られます。土岐市の鈴木藏(志野)、塚本快示(白磁・青白磁)、瑞浪市の加藤孝造(瀬戸黒)、多治見市の荒川豊蔵(志野・瀬戸黒)をはじめ加藤卓男(三彩)など著名な現代巨匠の出身地でもあります。
陶芸作家も多くその数は400人とも500人ともいわれています。美濃陶を作る陶芸家に限らず著名な実力作家が活動する地域といえます。また美術館・資料館が充実している地域でもあります。徒歩ですと下に挙げる中では土岐市の元屋敷あたりが限度です。車での移動をお勧めします。
多治見市の美術館は岐阜県現代陶芸美術館(セラミックパークMINO内)があります。特別展は資料も含めて内容が素晴らしいです。セラミックパーク内のショップでは現代作家の作品が展示販売されています。近隣にある美濃焼ミュージアムも併せてお勧めします。
土岐市駅周辺ならば美濃陶磁歴史館がよいと思います。出土品の桃山陶は典型的なものばかりで状態も比較的よいです。参考になる陶片の数も尋常ではありません。また元屋敷陶器窯跡が近いので窯跡をみることができます。
車であればここから可児市の荒川豊蔵記念館も近いです。ちなみに月~木休みなので開館状況は要確認です。
瑞浪市ならば瑞浪市陶磁資料館があります。陶磁器の収蔵品数は比較的少ないといった印象です。企画展は陶磁器に限りませんので事前に確認していただければと思います。