三川内焼(長崎県佐世保市三川内町)
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三川内焼(長崎県佐世保市三川内町) JR九州 佐世保線「三河内」駅周辺

 

 三川内焼の歴史

三川内焼(みかわちやき)は1600年ごろ平戸藩主 松浦鎮信が、朝鮮人陶工である巨関(こせき)に窯を作らせたことが始まりとされています。巨関は文禄・慶長の役で日本に連れ帰られた陶工で、その窯は中野窯(現在の三川内市)とよばれます。

 

その一方で秀吉に領地を没収された波多氏の領内から、唐津の陶工たちが木原・江永(えなが)地域に移住してきます。これら三川内・木原・江永の3地域を平戸藩の三皿山といいます。

 

三皿山で焼かれる陶器は藩名にちなんで平戸焼(ひらどやき)と呼ばれていました。一般的に三川内焼と呼ばれるのは廃藩置県後となります。

 

開窯当初は唐津系の陶器を作りますが、ある時期から磁器を焼くようになります。きっかけは1633年 巨関の息子である今村三之丞(いまむら さんのじょう)が針尾三ツ岳で陶石を発見したことといわれます。

 

この陶石は網代陶石(あじろとうせき)とよばれ磁器生産の土台ができます。三之丞は藩から皿山の責任者に任命され御用窯として幕末まで発展します。

 

1662年ごろからは天草陶石が使われます。これを三之丞の子である弥次兵衛(如猿:じょえん)が見つけたという説もあります。三川内の染付と白磁は皇室・幕府への献上品とされるほどの高品質で知られます。

 

17世紀末、海外へ輸出されると精緻な絵付けの磁器は好評を博しました。19世紀に入ると日本ではまだ珍しいコーヒーセットや磁器製のワイングラスを輸出します。廃藩置県後も輸出は伸び昭和の中ごろまで続きます。国内でもその技術は認知され現在に至ります。

 

 三川内焼の特徴

三川内焼の代表的なモチーフは唐子(からこ)です。唐子絵とは中国風の髪型と服装をした子供の絵のことです。唐子の人数によって等級が異なります。7人いれば皇族・幕府への献上品、5人ならば大名への贈答品、3人ならば一般品といわれます。

 

技法では素地を絵具にして立体的な絵を描く「置き上げ」が知られます。絵の具を幾重にも塗り重ねて盛り上げて描く技法です。龍や鶴、唐獅子などのモチーフは彫刻のようにみえます。細工物(これも龍などが多い)を器面に接着する「貼り付け」もあります。

 

また、薄作りの作品も有名で1mm程のものは「卵殻手(らんかくで)」、「薄胎(はくたい)」と呼ばれます。光にかざすと反対側が透き通ってみえるほどです。こうした精緻な技術の高さが特徴といえます。

 

作品を見るには三川内焼美術館がお勧めです。江戸期からの伝世品と窯元の作品が展示されているほか、窯元の地図ももらえます。近くの佐世保市うつわ歴史館も三川内焼が収蔵されています。
三川内焼美術館と佐世保市うつわ歴史館

 

 

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