伊賀焼(三重県伊賀市丸柱)
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伊賀焼(三重県伊賀市丸柱) JR西日本伊賀鉄道「伊賀上野」駅から車

 

伊賀焼発祥の謎

伊賀焼(いがやき)は天正年間(1573年~1592年)に初めて文献に現れます。桃山期の茶人 津田宗久(つだそうぎゅう)が伊賀焼の壺を飾る記述があります。

 

それ以前の発祥については未だにはっきりとしていません。物証となる出土品をはじめ資料が乏しく結論が出ていない状況です。

 

たとえば太朗太夫と次郎太夫という陶工が1530年ごろに丸柱で開窯したとする説。常滑の影響を受け平安末~鎌倉時代はじめに興ったという説。

 

しかしいずれも出土品や確かな文献がないことから隣接する信楽焼の流れから派生したのではと推測されています。その根拠は五位ノ木古窯跡(ごいのきこようあと)にあります。

 

桃山期に伊賀領だった五位ノ木で、信楽の陶工たちが陶器を作っていた事がわかっています。1700年からは信楽領になっていますが、これを伊賀焼の発祥とする説もあります。地理的にも山ひとつ隔てたのが伊賀と信楽です。

 

国境も流動的であったといわれ、三郷山の山土など共通する土を使っていたことも明らかになっています。そのため古伊賀と古信楽の中には見分けのつかない作品があるくらいです。

 

こうした状況から、現存する伊賀焼の伝世品は信楽と密接な関係があったと考えると筋が通ります。五位ノ木から始まり槙山、丸柱、上野城内へと拡大していったとすればどうでしょうか。

 

もちろん日用使いの土器や陶器は古代から連綿と焼かれていたでしょう。しかし焼き締め茶陶に代表される典型的な伊賀焼は、今のところ桃山時代の天正年間に作られはじめたと考えるのが妥当だと考えます。

 

 古伊賀と再興伊賀

伊賀焼は大別すると古伊賀と再興伊賀に分かれます。古伊賀とは桃山時代から江戸時代初期に作られた伊賀焼を指します。筒井定次の統治期(1584年~1608年)、藤堂高虎の統治期(1608年~1630年)から、伊賀の一時的な廃窯(※)までのものを指します。

 

統治者にちなんで「筒井伊賀」、「藤堂伊賀」とそれぞれ呼ばれます。

 

ちなみに当時の茶の湯の宗匠は古田織部(1544年~1615年)。織部の没後は小堀遠州(1579年~1647年)の影響も受けています。遠州が指導したといわれる「遠州伊賀」は綺麗さびに準じた端正な作行きとされます。

※参考
伊賀焼は1630年代に一度途絶えたという伝聞が「森田久右衛門江戸日記」にあります。森田久右衛門(もりた きゅうえもん)は土佐藩の御用窯である尾戸焼(おどやき)の陶工です。1678年に土佐と江戸を往復した際、窯場めぐりを記録したものが江戸日記です。

 

江戸日記はその詳細な記録から古陶磁研究の貴重な資料とされます。その中で人づてに「今から40年ほど前(=1630年代後半)に窯の火が絶えた」という話を伝え聞いたとあります。

再興伊賀は古伊賀(1584年ごろ~1630年代後半)が廃窯になったあと、江戸中期に再興した伊賀焼を指します。1669年に茶陶を試作した記録もありますが、継続的に焼かれるようになるのは宝暦年間(1751年~1764年)とされます。

 

再興伊賀では従来の焼き締め陶ではなく施釉陶器が主に作られます。この時期から日用品を数多く産出し、土鍋・土瓶・行平などが今日まで作られています。造形は古伊賀と比べると端正で画一的になり、釉薬は黒釉・白釉・緑釉・辰砂のほか多岐にわたります。

 

白化粧や色絵の作品もありますが、伊賀焼本来の焼き締めとは全く趣が異なります。

 

 伊賀焼の特徴

初期の伊賀焼は近隣の信楽と似ているためよく比較されます。土は同じものを使っているケースもありますが、信楽よりキメが細かく白色に近い粘土が主に使われました。

 

伊賀焼は還元焼成された暗褐色の肌に、ビードロ状の美しい釉薬が流れます。やや暗い色調のものもあれば、信楽に近い赤褐色のものもあります。

伊賀焼_耳付水差

耳付の水差。長石の粒が細かく、やや暗色の器肌にビードロ状の釉が流れる。

 

伝世する古伊賀のほとんどは茶陶として知られます。たとえば水指では「破袋」や「鬼の首」、花器であれば「からたち」「寿老人」「業平」などがあります。これらは耳付のもので信楽にはない特徴として挙げられます。

 

これらは総じて暗褐色の器肌と、緑の釉色が美しい対比をなしています。造形の歪みと焼き味の違いから、見る角度によっては全く別物に見えるのも古伊賀の面白さです。

 

このように、古伊賀は耳の装飾や歪んだ造形など様々な意匠をこらしています。茶の湯では信楽が日用品から茶器に見立てられたのに対し、伊賀は初めから茶陶を意識して生産されたと考えられます。

 

なぜならばその歪みや大量の釉、うつわの欠けや焼けムラが多いからです。

 

熱が加わって歪んだのか、本当に薪の自然釉なのか、伝世する間に欠けたのか、自然に焼いてあれほど窯変が起こるのか・・・などなど疑問に思うこともあります。

 

信楽が千利休によって用いられたように、伊賀は古田織部(ふるた おりべ)の指導を受けました。

 

意図的に歪めた造形を試みたのはまず間違いないでしょう。また松灰などを意図的にかける「呼び釉(よびぐすり)」のあと繰り返し本焼きしたかもしれません。欠けた部位もしっかり焼けていれば、はじめから欠損させて焼いたのでしょう。また灰をかぶせたりサヤに入れれば焼ムラや窯変も意図的に起こせるでしょう。

 

こうした憶測はさておき、古伊賀は特に個性的で、同時期の他窯と比べて異彩を放っています。

 

現在の窯元は焼き締めと施釉陶器を作る窯とおよそ二分されています。もちろん両方扱う窯もありますが、焼き締めが伊賀焼の本領です。なお窯元の多くは丸柱の近くに密集しています。伊賀焼伝統産業会館では窯元の地図がもらえます。
伊賀焼伝統産業会館

 

また場所は変わりますが、上野市駅が最寄りの「伊賀信楽古陶館」もお勧めします。2Fの展示室では、古伊賀と古信楽の名品が展示されています。収蔵品の質が高く典型的な伊賀焼と信楽焼の古陶があります。

 

これらを見ると初期の作品の中には、伊賀と信楽の区別がほぼつかないものも何点かあります。名品の荒々しさと優美さ、区別できるものはその違いをじっくり見比べることができます。
伊賀信楽古陶館

 

 

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