波佐見焼(長崎県東彼杵郡波佐見町)

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波佐見焼(長崎県東彼杵郡波佐見町) JR九州佐世保線「有田」「三河内」駅から車

 

 波佐見焼の歴史

波佐見焼(はさみやき)のはじまりは1598年ごろといわれています。大村藩主 大村喜前(よしあき)は朝鮮人陶工の李祐慶(りゆうけい)に窯を築かせました。李祐慶は文禄・慶長の役で日本に連れられてきた陶工です。

 

下稗木場窯(しもひえこばがま)は波佐見最古の窯で施釉陶器が焼かれました。そして畑ノ原窯でははじめて磁器の産出に成功します。次に三股陶石(みつのまたとうせき)が発見されると三股窯で青磁が中心に焼かれました。

 

その青磁は国内でも最高品質のものといわれます。天草陶石を使いはじめると白磁の生産も盛んになりました。

三股青磁

三股青磁の優品。江戸時代の出土品

 

こうして17世紀半ばには四皿山(三股山・中尾山・稗木場山・永尾山)で東南アジア向けの輸出品も作られます。このころ中国では清朝に政権交代の混乱期だったため、代わりに波佐見など日本の磁器輸出が伸びました。

 

18世紀に入ると輸出が伸び悩み、国内向けにくらわんか椀の大量生産がはじまります。くらわんか椀は簡素な染付磁器で大量生産によって安価で供給されました。

 

名前の由来は「酒くらわんか、餅くらわんか」と声をかけながら飲食品を売り渡る、くらわんか船からきています。餅や酒を入れた安価なくらわんか椀は、飲食が済むと川に使い捨てられたといいます。

くらわんか茶碗

18世紀中〜後期のくらわんか茶碗。呉須の素朴な色合いと柔和な形が良い。

 

くらわんか椀に特徴的なのは蛇の目釉剥ぎ(じゃのめゆうはぎ)と、有田焼などに見られるコンニャク印判(いんばん)です。
蛇の目釉剥ぎとコンニャク印判手
釉剥ぎは椀を重ね焼きするときに行います。釉薬を蛇の目(=重ねる椀の高台が接触する形)に剥がして焼くと、重ねた椀の高台が下の椀にくっつかないで済みます。限られたスペースで量産する場合に適しています。

 

いっぽうコンニャク印判は椀の表面などに押す呉須(ごす:藍色の絵具)のスタンプのことです。椀は湾曲してますので硬いスタンプではきれいに判をつけません。そこで実際はコンニャクではなく、皮のように柔らかい素材で判をつきました。にじんだ呉須によって素朴な雰囲気がでています。

 

この時期の登窯は大量生産のため極大化しています。波佐見には世界最大の大新登窯(170m超・室数39)、中尾上登窯(160m超)、永尾本登窯(150m超)が稼働していました。規模的に世界第1位〜3位の登窯としても有名です。

 

19世紀以降はくらわんか椀のほか、酒や醤油を入れる海外向けのコンプラ瓶も大量生産されました。当時は高価とされていた染付磁器を、大量生産によって庶民に安価供給し食文化を進展させました。こうして波佐見焼は長崎県最大の窯業地として発展しました。

 

 波佐見焼の現在

波佐見焼はかつて有田焼として売られていた経緯があります。有田焼は陸路では有田駅から、航路では伊万里港から出荷されます。波佐見焼も同様のルートを使うため、有田焼として認知されていたといわれます。

 

しかし1978年に伝統工芸品に指定されると、改めて「波佐見焼」の名で大々的に売り出されます。現在はほとんどが染付、次いで白磁・青磁作品が作られています。また、波佐見焼の代名詞であるコンプラ瓶も作り続けられています。

 

波佐見焼は高品質の青磁から一転し、庶民の食器を現在まで作り続けてきました。くらわんかの染付は三川内焼のような精緻さもなく大らかな筆致が特徴といえます。絵のモチーフも多様で自由な作風が見てとれます。

 

波佐見焼の窯元は30を超えています。これら作品をまとめてみるには波佐見町陶芸の館(くらわん館)が良いでしょう。1Fでは各窯元の作品が展示販売され、2Fは歴史的資料と伝世品の展示が見どころです。

 

また敷地内に隣接する「世界の窯広場」もユニークな施設です。古代から近代までの窯が復元されており非常に参考になる一画です。

 

 

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