会津本郷焼(福島県大沼郡会津美里町)JR只見線「会津本郷」駅より車
会津本郷焼の歴史
会津本郷焼(あいづほんごうやき)は、福島県の会津美里町(旧:会津本郷町)を中心に作られる陶磁器です。地名にちなんで「会津焼」「本郷焼」とも呼ばれます。
会津地域における陶業の歴史は古く、1590年に蒲生氏郷の入封により、会津若松城(旧:黒川城。現:鶴ヶ城)の黒瓦生産が盛んになったのを発端とします。
そして1645年に会津藩主である保科正之が、瀬戸出身の陶工 水野源左衛門(みずの げんざえもん)を招いたのが会津本郷焼のはじまりといわれます。
源左衛門は1647年に築窯するも病没し、弟の長兵衛(別名:瀬戸右衛門)が丈夫な施釉瓦の焼成に成功したといわれます。施釉すれば水や湿気を吸いにくくなりますね。おかげで冬に凍って割れる瓦が激減したといいます。
なお志半ばで病没した水野源右衛門は、会津本郷焼の陶祖として知られます。
さらに会津藩の奨励を受けて陶器生産が拡大するいっぽう、1800年には佐藤伊兵衛(さとう いへえ)が磁器焼成に成功します。
この功績により、陶祖:水野源右衛門、磁祖:佐藤伊兵衛の名が歴史に刻まれました。
その後1868年の戊辰戦争によって一時衰退するものの、明治時代中期には染付土瓶の海外輸出、国内向けには粗物といわれる皿・鉢・壺・片口などの日用品の生産で盛り返しました。
大正時代には柳宗悦らによる民芸運動でも脚光を浴び、昭和には1958年にベルギーにおけるブリュッセル万国博覧会で、鰊鉢(にしんばち)がグランプリを受賞するなど国内外での知名度を高めていきます。
ちなみに鰊鉢とは鰊を山椒・醤油・酢で漬け込む専用容器のことです。鰊は保存食として親しまれてきた歴史があり、鰊鉢は会津ならではの特色ある器種の一例といえるでしょう。
そして会津本郷焼は、1993年に伝統工芸品の産地指定を受けて現在に至ります。
会津本郷焼の特徴
会津本郷焼は地場の土と灰釉・鉄釉・青釉(コバルト釉)・辰砂釉の組合せにより多彩な作風が特徴です。種類としては皿・鉢・壺・酒器・湯呑みのほか、白磁に染付を施した作例が多く見うけられます。
これは白い藁灰釉に辰砂釉をかけ分けた作例です。表面の装飾と混ざり合う釉調が柔和な雰囲気を出していますね。
こちらは蓋物の作例です。つややかな白磁に染付が美しく、小ぶりで品のある作品です。
このように会津本郷焼は陶器・磁器ともにバリエーションが豊富です。絵付を施した作品も多く、呉須を用いた染付のほか、灰釉に鉄絵、白磁に色絵など多岐にわたります。
また灰釉の作品を見ると、ふと無地唐津や斑唐津、鉄釉では益子の黒釉や飴釉などを連想しました。これは他の窯業地と同様、会津本郷焼が地元の土を大切に用い、近隣の草木灰・含鉄土石を活かした地場の民窯ならではの持ち味です。
さて、各窯元の作品を見るならば「会津本郷焼資料展示室」をお勧めします。1Fには観光案内のほか現代作品が、2Fの展示室では各時代の作品が陳列されています。
その隣には陶磁器の販売所があって各窯元の作品が購入できます。14軒の窯元も徒歩圏内ですので、美里町の町並を見ながら窯元を訪ねてみると良いでしょう。
会津若松市のやきもの 会津慶山焼について
会津美里町の近隣では、会津若松市に慶山焼の窯元があります。会津慶山焼(あいづけいざんやき)は冒頭で述べた蒲生氏郷公の入封後に興った窯で、黒瓦のほか日用品を焼いた窯として知られます。
慶山焼は蒲生氏郷に招かれた、唐津の陶工によって開窯されました。第二次世界大戦後にはいったん廃窯になりますが、1974年に地場の窯元である「やま陶」によって復興を遂げています。
作品は籾殻・藁灰をもちいた白色乳濁釉の陶器。そして欅の木灰を用いた日用品が主体となっています。
車での移動であれば会津若松ICから20分ほどの距離ですので、会津若松のやきものも楽しんでみてはいかがでしょうか。