民芸陶器(縄文象嵌)と島岡達三
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民芸陶器(縄文象嵌)と島岡達三

 

縄文象嵌とは

縄文象嵌(じょうもんぞうがん)は作品に縄目を施して色の違う土をはめ込む(象嵌する)技法です。「民芸陶器(縄文象嵌)」の人間国宝である島岡達三によって考案されました。氏の経歴については後述させていただきます。

 

縄文象嵌の縄目

 

その概要は成形した作品が半乾きの状態で縄を転がして模様をつけます。次に縄模様の凹んだ部分を含め、全体に化粧土を塗ります。そして乾燥したら表面を薄く削り取るという工程です。すると縄で凹んだ部分には化粧土が残り、もともと平らな部分は化粧土がはがれて下地があらわれます。

 

たとえば白い土で湯呑みを作るとしましょう。半乾きの状態で縄模様をつけると、縄を押し当てたところが凹みます。ここで青い化粧土を全体に塗ります。

 

これは一見すると青色の湯呑みです。しかし乾燥させてから表面を少しずつ削るとどうなるでしょうか?

 

縄を転がした部分の凹んだ溝に青化粧土が残り、それ以外のところは素地の白土が見えてきます。つまり最終的に「白い湯呑みに青い縄目」が見てとれるわけです。本焼きはこれに透明釉をかけて焼成します。

 

 島岡達三のあゆみ

島岡達三(しまおか たつぞう1919年~2007年)は組紐師である島岡米吉の長男として東京に生まれます。組紐(くみひも)とは複数の紐をより合わせて織った紐のことです。のちの縄模様につながる重要な生い立ちといえます。

 

19歳のころ島岡氏は目黒区駒場にある「日本民藝館」でみた民芸作品に感銘を受けました。そして民芸運動の中核メンバーである栃木県益子の濱田庄司(はまだ しょうじ)を訪ねます。島岡氏は1946年に益子移住してから濱田氏の門弟として陶技を磨きます。

 

その後は栃木県窯業指導所に勤務します。そこで古代土器の標本を作るなど縄文土器の知識を深めます。益子に移住してから7年、1953年に独立して自分の窯を持ちます。34歳のころでした。

 

この時期には縄文象嵌の基本形は出来ていたといわれます。すなわち縄文と象嵌の組合せです。縄の文様は生家での実体験と、後年の縄文土器の復元で身に付けています。さらに象嵌の技術は民芸に感動したという過去から、李朝の三島手などからヒントを得たものでしょう。

 

こうした縄文象嵌に加えて、白い窓絵を設けて中に赤絵で描画したり、象嵌に青・黒色の土を用いるなど別の技法との組合せを試みています。釉薬は透明釉である並白(なみじろ)釉が一般的に使われました。灰釉の一種で益子では馴染みの釉薬です。

 

こうした独自の技法のほか、やはり濱田庄司の影響も当然受けていると思います。たとえばロウソクで白抜きした窓絵、釉の流しかけ、柿釉をはじめとする鉄釉、赤絵の筆致など濱田氏の作風を範としながらも、島岡氏の作品には独特の温和な雰囲気を持っています。

 

師に続いて1996年 島岡氏は国の重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)」保持者に認定されます。

 

生家での組紐から体得した技を縄目文様であらわし、象嵌と組み合わせる事で独自の境地を見出した島岡氏。用の美という命題にしたがって益子における一つの作風を確立した陶芸家といえます。

 

 

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