民芸陶器と濱田庄司
民芸陶器とは
民芸は大正時代末に柳宗悦(やなぎ むねよし)によって提唱された概念です。陶磁器、染織、木工、金工、漆芸、大津絵、水墨画など「民衆的な工芸品」を広く指します。日用品の素朴な美しさ「用の美」を紹介する民芸運動として知られます。
民芸調の湯呑み。糠白釉(ぬかじろゆう)と鉄絵による装飾
多岐にわたる民芸のなかでの陶器(部門)を民芸陶器と呼びます。益子焼のほか青森から沖縄まで実に60箇所を超える民窯が紹介されています。もともとは大正末~昭和初期の日用雑器を指しましたが、現代では民芸調の作品を民芸陶器とよびます。
濱田庄司の来歴
民芸調の作風で知られる巨匠に濱田庄司(はまだ しょうじ 1894年~1978年)がいます。民芸陶器の人間国宝なのでよく誤認されますが、濱田庄司の作品=民芸陶器ではありません。
氏は神奈川県川崎市の生まれです。溝の口駅 南口には生誕碑が建っています。1913年 板谷波山が教鞭をとる東京高等学校(現 東工大)の窯業科に進学し、波山邸で益子の山水土瓶をみることになります。
卒業後は京都市立陶磁器試験場に就職します。そこは高等学校の先輩である河井寛次郎と同じ職場です。この時期に柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチと出会います。そして河井氏を含むこの5名が主軸となって民芸運動を推進していきます。
1920年 濱田氏はバーナード・リーチと渡英してセント・アイヴス(St.Ives)に西洋初の登窯を築いています。この工房はリーチ・ポタリー(The Leach Pottery)と呼ばれ、その後のセント・アイヴスはアーティストが集まる芸術村として発展します。
同地でスリップウェアの破片がたびたび出土し、濱田氏によって日本に持ち帰られています。また、工芸家の集まるディッチリング(Ditchling)にも滞在し、1923年にはロンドンでの初個展を成功させています。
帰国後の1924年、30歳の濱田氏は益子に定住します。その頃は沖縄にも長期滞在して琉球赤絵の作品を残しています。これは質の良さに加えて数が限られるため貴重な作品として認知されています。
濱田庄司の陶芸
氏の作品は厚手のものが多く柔和な雰囲気が漂います。親しみのある柿釉や深みのある黒釉など多彩な釉調がみられます。代表的な装飾は釉薬を柄杓でかける流し掛けと、唐黍紋(とうきびもん)などの純朴な絵付けです。
流し掛けは大皿によくみられます。直線的で豪快に流してるものもあれば、流線型で波線や円を描くものもあります。また、唐黍紋は扁壺や茶碗、湯呑みなどにみられます。白化粧や窓絵の余白に鉄絵や赤絵、緑釉で描かれる唐黍紋は氏のトレードマークです。度重なる沖縄での作陶時に取り入れたモチーフです。
また、その施釉の速さはつとに有名で60cmの大皿に三すじほどの釉を15秒で流しかけたと言われます。あるとき訪問客が「そんなに早いのではあっけなく物足りない」と不満げにいうと、氏は「15秒プラス60年と見たらどうでしょうか」と切り返したといいます。
技量を裏付ける無意識の技と、氏の諧謔の精神をよくあらわすエピソードです。
これら流しかけの大皿をはじめ氏の作品は駒場の日本民藝館、栃木県にある益子陶芸美術館で鑑賞することができます。特に民藝館では各国の工芸品のほか、李朝陶磁、河井寛次郎やバーナード・リーチの作品も併せて見られるのでお勧めです。濱田氏と民芸の繋がりがみてとれるでしょう。
晩年、氏の人生をよくあらわした言葉が残されています。
私の陶器の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った
- 濱田庄司 昭和47年(1972年)
山水土瓶との出会い、河井寛次郎との交流が旅のはじまりともいえるでしょう。