萩焼(白萩釉)と十代 三輪休雪(三輪休和)
スポンサード リンク

萩焼(白萩釉)と十代 三輪休雪(三輪休和)

 

 萩焼の技法

萩焼の土は砂気の多い大道土を主体に、鉄分の多い見島土や金峯土(みたけつち)を混ぜて使います。混合はおおむね大道8に対して見島土(または金峯土)2の割合です。

 

大道土は白・黄・赤の三種に大別され、鉄分を含むと白から黄色・赤へと有色になっていきます。その原土は長石・珪石の粒が多く、花崗岩が風化した様子がよく分かります。

黄大道土原土と見島土

黄色の大道土原土と鉄分を含む見島土。見島単味では成形が難しい

 

花崗岩が風化してできた大道土は長石・珪石からなる白色系粘土です。見島土は鉄分を含み大道土が使われる以前は、萩の一般的な陶土として用いられます。

 

釉薬は透明の土灰釉(どばいゆう)と白濁する藁灰釉(わらばいゆう)が代表的な釉薬です。

 

土灰は土を燃やした灰というわけではありません。古萩ではイス灰が主に使われたようですが、現代では雑木の灰に長石を加えて基礎釉としています。割合はおよそ土灰(雑木の灰)5:長石5の割合だと思います。透明度が高く長石が多くなれば白色が強くなります。

 

藁灰釉(わらばいゆう)は文字通り藁を燃やした灰で、ガラスの素になる珪酸分を豊富に含みます。藁灰に長石を混ぜて作るのが一般的な藁灰釉です。割合はおおむね藁灰4:長石6(もしくは土灰3:長石3)くらいでしょうか。

 

調整比はまちまちですが、藁灰が70~80%と多すぎると釉が剥がれる・上手く熔けないなど使い物になりません。

 

また、萩の枇杷色は土灰釉を酸化焼成すると得られます。逆に還元気味に焼けば青味を帯びた釉調になります。灰と土に含まれる微量な鉄分による発色で、酸化・還元での焼き味はおおむねこのように認識しています。

 

焼成温度は1,000℃ほどといわれますが、これも一概に言い切れないところです。一般的に言われることは、極端な高温では耐火度の問題もあり、総じて中火度で焼成されるため焼きの甘さが指摘されます。

 

焼きの甘さから吸水性があるため、茶陶や食器などの変色は「萩の七化け」と珍重されるほどです。ちなみに焼き締りが少ないと、熱がゆっくり伝わりますね。これが抹茶碗に必要なため、萩の茶碗が高く評価されるゆえんです。

 

なお萩焼には絵付けがほぼ見られず、土灰や藁灰によるシンプルな作品が多いです。また白土を化粧掛けする作品、化粧土を刷毛で塗る刷毛目の装飾技法もよく見受けられます。

 

こうした技法の中でも特徴的な藁灰釉を用いて優品を残した現代作家が十代 三輪休雪(みわ きゅうせつ1895年~1981年)です。十代休雪は隠居後は「休和」と号し晩年も変わらぬ逸品を作り続けます。萩焼で最初の人間国宝となります。

 

 松本萩と三輪家

萩の系譜を二分するとすれば萩市椿東(ちんとう)の「松本萩」と長門市の「深川萩」となります。江戸時代はどちらの萩も藩の御用窯として栄えます。三輪家は松本萩の筋にあたり、初代休雪(1630年~1705年)が小畑地区の小丸山に築窯したといわれます。

 

その後、初代休雪は後継者が幼い佐伯家の窯を引き受けて、萩市の椿東無田ヶ原(ちんとう むたがはら)の窯を引き継ぎ現代に至ります。また、初代休雪や四代休雪は京都で楽の技術を学んだことで知られます。

 

このように歴史ある陶家に生まれた十代休雪は1927年(32歳)で襲名します。この時期は大正・昭和はじめの不況によって、陶家の転業と廃業が繰り返された時代です。三輪窯は茶陶に限らず日用品も精力的に作って窯の火を守り続けました。

 

なお1930年(昭和5年)には美濃で荒川豊蔵(あらかわ とよぞう)が志野の破片を発見します。桃山期の志野陶片を美濃の古窯跡で採取し「瀬戸で焼かれた志野」という定説をくつがえします。

 

これは桃山陶への関心が高まるきっかけとなった出来事で、こうした風潮は萩にも訪れます。

 

 からひね会と古萩の再現

1941年にひとつの転機がやってきます。それは三重の実業家で陶芸家でもある川喜田半泥子(かわきた はんでいし)の来訪です。三輪窯に3日間滞在した縁で翌年の1942年に「からひね会」が発足します。

 

からひね会のメンバーは半泥子のほか、荒川豊蔵(美濃)、金重陶陽(備前)と三輪休雪の4名です。この会では桃山陶の探求と現代作品への活かし方、作陶精神をめぐって交流を深めました。そして桃山期にはじまる古萩は三輪氏の主要テーマとなっていきます。

 

また古萩の源流である高麗茶碗、すなわち朝鮮半島産である割高台や井戸、御本半使(ごほんはんす)、彫三島などを参考にして作陶にいかしています。荒川氏から美濃や瀬戸、金重氏からは備前についてさまざまな情報を交換したことでしょう。

 

古陶磁に造詣の深い川喜田氏を中心にした「からひね会」は、結果的に3人の人間国宝を輩出しました。よって「からひね会」は、現代茶陶においてきわめて重要な意義を持ちます。

 

三輪氏は古萩を参考にしながら、現代の萩焼の技法を確立していきます。1956年から日本伝統工芸展へ茶碗を出品。三輪休雪の名と伝統ある萩焼は、日本全国にひろく認知されていきます。

 

 十代休雪の技法

胎土は砂礫を含む白色の大道土およそ5割と黄色みがかった金峯土2~3割に、鉄分を含む赤茶色の見島土を2~3割混ぜて作られているといわれます。

 

このまま焼くと見島土の鉄分によって茶褐色を呈しますが、白い焼きあがりを得たい部分は大道土で化粧掛けを施します。

 

また、透明の土灰釉については、やや長石の比率を高めることで釉の流れの一部が白濁しています。透明釉の中で白濁する成分、すなわち長石または藁灰の割合を上げていると考えます。

 

藁灰釉も特徴のあるもので、純白に近い白萩釉が特徴です。これは休雪白(きゅうせつじろ)とも呼ばれる藁灰釉で、長石単味の志野釉に近い真っ白な釉調となります。

 

藁灰が主体の釉薬として純白度が高く、琵琶色の胎土に雪のように厚がけされた釉調は、氏独特の雰囲気があります。

萩焼_休雪白(きゅうせつじろ)

その藁灰は完全燃焼させずに不純物をあえて残し、粗くひいた状態で釉薬にしたといわれます。藁灰単味では釉として使えませんので、食いつきをよくするため長石を混ぜたのでしょう。

 

休雪白は実弟の十一代 休雪(三輪壽雪)との共同研究の賜物でそのまま引き継がれました。

 

休雪白を用いた十代休雪の作品は、古萩の品格を持つ茶碗が数多く残されています。また、面取りの水差や花器など個性的な造形もみられます。すなわち古格に縛られず、現代陶としての萩を体現しているといえます。

 

氏は1967年に72歳で隠居して「休和」と号しました。休和時代の作品は特に評価が高く、今まで培った技法が凝縮されているように思えます。そして数も限られているため、休和時代の茶碗やぐい呑みはさらに希少価値があります。

 

1970年、氏は今までの功績により国の重要無形文化財「萩焼」保持者の認定を受けます。

 

なお弟の三輪壽雪も1983年には人間国宝となります。壽雪氏は砂気のおおい鬼萩手(おにはぎで)と割高台の造形で有名ですね。その作品には「休雪白」が美しくかけられています。休和の遺した渾身の白はこれからも受け継がれていくことでしょう。

 

 

陶磁器お役立ち情報 トップページへ

 
スポンサード リンク