色絵磁器と富本憲吉
色絵磁器とは
色絵磁器は色絵具で上絵が描かれた磁器のことです。色絵は釉薬をかけて焼いたうつわの上に描かれます。釉の上にあるので「上絵」といい低火度(600℃~800℃)でしっかり焼きつけます。
(上絵に関する参考ページ:下絵と上絵)
うつわの色は上絵が映えるようおおむね白色の器胎が使われます。色絵(上絵)でよく知られる種類はおよそ以下の通りです。色絵磁器はこうした色絵技法の「総称」でもあります。
- 赤絵(あかえ):色絵の総称で錦手と同義に扱われることもある。初期色絵が赤を主体としたためこう呼ばれる。または単に赤い色絵具もしくは赤絵の施された陶磁器のこと。中国では赤絵のことを「五彩」(ごさい)という。
- 錦手(にしきで):赤・青・緑・紫・黄色の色絵が描かれた作品。錦のような色合いからこう呼ばれる。
- 染錦手(そめにしきで):染付に金彩を含む色絵を描いた作品。呉須の藍色に金・赤・青・緑・紫・黄色の色絵が使われる。金襴手(きんらんで)は代表的な染錦手といえる。
- 豆彩(とうさい):中国明時代に開発された色絵のこと。景徳鎮(けいとくちん)窯が有名で、豆の色をした緑の色絵が特徴的なためこう呼ばれる。藍色の呉須に緑・黄・赤などの色絵が使われる。
- 粉彩(ふんさい):中国清代に開発された色絵。西洋産の顔料を使った色絵具で、たとえば桃色でも柔らかく「濃淡」をつけた色調が特徴。日本では粉彩のことを十錦手(じっきんで)という。
日本の現代陶芸界における色絵磁器の大成者は富本憲吉(とみもと けんきち1886年~1963年)です。
富本憲吉の色絵
富本憲吉は奈良県の地主の家に生まれます。教養人である父親の影響で書を学び絵を描き、古陶磁をみて育ちます。
そして東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)では、建築装飾を学ぶため図案科に進学しました。在学中21歳の時、イギリス留学をして図案と装飾について多くを学んだといわれます。
イギリス留学の動機はウィリアム・モリス(1834年~1896年)への憧れからといわれます。モリスはアーツ・アンド・クラフツ運動で知られるイギリスのデザイナーで「モダンデザインの父」と称される巨匠です。
留学時の富本氏は図案や建築装飾を学び、ヴィクトリア・アルバート美術館(V&A)で世界の工芸品を見て熱心にスケッチした事が知られます。この時点では陶芸家を目指していたわけではなさそうですね。
陶芸をするきっかけは、留学の帰途で出会ったターヴィーという画家によってもたらされます。ターヴィーから日本にいるバーナード・リーチの話を聞いた富本氏は大いに興味をいだき、帰国して間もなくリーチ氏と出会います。
ところで、当時バーナード・リーチが作陶を学んでいたのは六代 尾形乾山(おがたけんざん)でした。富本氏はリーチ氏の通訳をしながら作陶に興味を持っていったのでしょう。
また、この時期には民芸運動を展開する柳宗悦(やなぎ むねよし)らとも交流をもっています。柳氏とは後年決別するわけですが、リーチ氏との出会いは陶芸をはじめる重要な転機でした。
なお富本憲吉の作風は時代ごとに3つに大別することができます。すなわち大和・東京・京都の三カ所でのキャリアを指します。
大和時代
リーチ氏との縁で陶芸に興味をいだき、富本氏は1913年に奈良の自宅に築窯します(大和時代)。形への強いこだわりを持ち、すでにこの時期から個性ある白磁を焼いています。
その特徴は胴がゆるやかにふくらみ首の短い白磁の壺が有名です。氏のキャリアを通して代表的な形といえるでしょう。中には面取りした作品もあり造形の美しさが見てとれます。
東京時代
1927年には東京に居を移し(東京時代)色絵磁器の創作がはじまります。磁土はもっぱら京都から取り寄せたといわれます。世田谷や近隣の山々などの草木を呉須で描いた作品のほか、錦手の作品は造形の斬新さと装飾技術の確かさを物語ります。
また、日本古来からある「五弁花模様」ではなく、氏独自の「四弁花模様」を使いはじめた時期でもあります。
これは自宅に咲いた定家葛(ていかかずら)をモチーフにした意匠といわれます。実際の花弁は五弁ありますが、あえて四弁にすることで形がすっきりとし、図案の収まりがよくなるのです。
こうして四弁花(しべんか)は富本氏のトレードマークとなり、連続したオリジナルの四弁花模様が鮮やかに施されています。この頃の作品群をみると、富本憲吉と分かる特徴的な色絵が確立された時期と言えるでしょう。
京都時代
さて大戦中の1944年には母校の芸大教授に就任したものの、1945年からは飛騨高山への疎開をへて京都へ移り住みます(京都時代)。ここから晩年までは氏の集大成の時期であり、戦後から数年は公職を辞して製作に没頭しています。
京都時代は独自の造形とさらに複雑な模様が昇華した作品が生まれます。たとえば模様では金銀彩で描かれた羊歯(しだ)模様がつとに有名です。
そして従来の色絵時期に金彩・銀彩を一緒に施す技法を確立しています。
融点の異なる金と銀を、赤化粧の上に加彩した飾壺は代表作のひとつといえます。奈良県立美術館や、京都国立近代美術館に収蔵される「蓋付飾壺」などが該当します。
このように「従来にない作品を作る」という信念が新たな作風と技法を次々と生み出しました。
氏の言葉に「模様から模様を作らず」という有名な一節があります。すなわち既存の模様を一切使わず、オリジナルの模様を創りだすということです。言葉のとおり作品の造形・文様において強烈な独自性をみることができます。
氏はその独創性と功績によって1955年 重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定されます。1949年からは京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)で教鞭をとって後任の育成に励んでいた時期でもあります。
富本氏は特定の師を持たず独学で作品を作り続けました。京都には清水焼、奈良には赤膚焼という有名な窯業地があったにも関わらずです。
これは独自性を追求する富本氏にはごく自然なことであり、またそのオリジナリティは作品にそのまま表れています。作品こそ全てという氏の思いから次のような言葉が残されています。
「墓不要。残された作品をわが墓と思われたし。」
没後50年以上を数える現在においても、その作風は唯一無二の芸術品として異彩を放ち続けています。