染付と近藤悠三

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染付と近藤悠三

 

 染付とは

染付(そめつけ)は酸化コバルトを原料とする絵の具を使います。代表的なものに呉須(ごす)があります。素焼きした素地に絵や模様を描いて透明釉をかけて焼成します。透明釉は伝統的にイスの木(マンサク科の植物)の皮を燃やした灰が代表的な原料といえます。

 

また酸素が不十分な還元状態で焼くことで、呉須は美しい藍色に発色します。仮に酸化状態で焼成すれば、呉須は還元作用が足りず真っ黒に発色してしまいます。呉須の発色を妨げない透明釉、還元焼成がポイントとなります。

 

染付とは一言でいえば白地に藍色の下絵が描かれた技法といえます。一般的な染付は呉須で線を描いたら、その中を塗りつぶしていきます。この塗りつぶすことを濃染め(だみぞめ)といい、塗りつぶした箇所を単に濃(だみ)ともいいます。

 

染付と濃染め

 

また、日本では透明釉の下に描かれるため釉裏青(ゆうりせい)とも呼ばれ、中国・朝鮮半島では青花(せいか。花=模様)といいます。また、英語ではblue & whiteという名前で顔料の青と素地の白を表わしています。

 

磁器が一般的ですが陶器をベースにした染付もあります。たとえば尾形乾山(おがた けんざん 1663年〜1743年)は陶器に染付を施した一例です。大根を描いた茶碗などが伝世しますが、磁器とは違ったやわらかな肌あいが特徴です。

 

染付は日本のみならず、世界的に有名でなじみ深いものといえます。

 

 各国における染付の発祥

時代 国と地域 概要

14世紀
はじめ

中国 景徳鎮
(けいとくちん)

北宋時代(960年〜1127年)に青白磁によって有名になりました。その後、元の時代に染付(青花)磁器の代表的な産地として一世を風靡しました。染付発祥の聖地です。

14世紀
後半

ベトナム ハノイ周辺 安南染付(あんなんそめつけ)と呼ばれます。陶器と磁器の中間(半磁器質)で白化粧土の上ににじんだ様相の絵が描かれています。藍の絞り染めと似ているとして、日本では絞り手(しぼりで)と呼ばれます。

15世紀
前半

李氏朝鮮 広州窯 王国によって運営された京畿道(けいきどう)にある官窯です。李朝染付の発祥地といわれ、世界中に収集家がいるといわれています。ただし伝世品は17C以降のものが殆どのようです。
16世紀 トルコ イズニック窯 オスマン帝国(1299年〜1922年)時代の代表的な窯場です。白地多彩陶器の一種に分類されます。当初は元の景徳鎮をモデルにしたといわれています。
16世紀 イラン メシュッド窯 サファヴィー朝(1501年〜1736年)時代の窯場です。イズニック同様、景徳鎮をモデルとしているとの資料があります。
17世紀 日本 有田町 佐賀県の有田町を中心とした磁器のことです。隣接する伊万里市の港から出荷されたことにちなみ伊万里焼と呼ばれます。1620年代の景徳鎮の古染付を手本としている事が近年の発掘調査でわかっています。
17世紀 オランダ デルフト窯 中国明代後期の万暦(ばんれき)染付がモデルといわれます。万暦染付とは、明14代 万暦帝治世(1573年〜1620年)の間に、景徳鎮で焼かれた磁器のことです。その特徴はやや灰色を帯びた藍色と「大明萬暦年製」の六文字が記された物が出土しています。

このように中国ではじまった染付は世界各国に伝播していきます。我が国では染付技法の現代巨匠として近藤悠三(こんどう ゆうぞう)が挙げられます。

 

 近藤悠三の染付

近藤悠三(1902年〜1985年)は京都府に生まれます。京都市 陶磁器試験場 付属伝習場のロクロ科に入所します。そこで、河井寛次郎(かわい かんじろう)・濱田庄司(はまだ しょうじ)と出会い技術を磨きました。

 

19歳の時、濱田氏の紹介で富本憲吉(とみもと けんきち)の助手になっています。そして富本から終生守り続けたといわれる座右の銘を授かります。

 

それは「陶器以外のことが身につけば身につくほど、君の陶器が立派になる」という言葉でした。

 

つまり陶器に執着しすぎず見識を広めれば、それが独自の作陶に後々いきてくるという事なのでしょう。色絵磁器の人間国宝である富本氏は、独自の模様を作るため既成の模様を重視しませんでした。そしてモチーフを探しに日々へとへとになるまで野山を歩き回ったといわれています。

 

オリジナリティ追求をすべく、近藤氏は浅野忠(あさい ちゅう)が設立した関西美術院でデッサンと西洋絵画を学びました。さらに河合卯之助(かわい うのすけ)からは陶芸を、津田青楓(つだ せいふう)から書と図案を学んだといわれます。

 

そこから確かな作陶技術と画才が融合した独自の近藤染付が生まれます。1928年(昭和3年)26歳で九回帝国美術院展覧会に出品して入選を果たしています。そして以後13回連続入選して実力作家としての地位を築き上げます。

 

その後、1953年(昭和28年)51歳で京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)の陶磁器科 助教授に就任。5年後には教授となり後任の育成を行いつつ自らの作品を発表し続けていきました。

 

1965年(昭和40年)には63歳で同学長になり、7代清水六兵衛(きよみず ろくべえ)・藤平伸(ふじひら しん)・八木一夫(やぎ かずお)というそうそうたるメンバーを大学に迎えました。彼らは清水五条界隈のみならず、陶芸界で知らないものはいないほど著名な実力作家たちです。当然のことながら近藤氏の人脈も一流であることを物語っています。

 

 近藤悠三の作品と記念館

はじめて作品を見たのは1998年頃と記憶しています。都内の某ギャラリーで染付の壺を見たのがはじまりです。それは真っ白な胎土に鮮やかな呉須で富士山が描かれているもので1980年ごろの作品でした。

 

18年前に描かれた富士のかたちは愛嬌がありながらも力強く筆致はどこまでも伸びやかでした。

 

店員からこの巨匠が京都生まれの物故作家であること、地元の記念館に巨大な皿があることを聞きました。京都の茶碗坂にある近藤悠三記念館は1mを超す梅染付大皿が展示されています。これは1975年に数十人という人工をかけて有田で焼かれたものだそうです。

 

氏の使う呉須は完全に精製されておらずマンガン・鉄が混じっています。不純物が含まれるということは、不安定な要素もありますが、微細な色調が出せるということでもあります。

 

そのため氏の描く呉須には部分的に青黒く発色したり不均一な濃淡が出てきます。この濃淡によって呉須の藍色は深みを増し、さながら雄大な水墨画のようにも見えてきます。

 

この大皿製作から2年後の1977年、近藤悠三は国の重要無形文化財「染付」保持者に認定されます。

 

氏の作品には赤絵や金彩を施した華美な作品や、面取など装飾のある作品もあります。しかし白地に染付という、シンプルで力強い作品群が「呉須三昧」と評された近藤氏の原点といえるでしょう。

 

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