葆光彩磁(ほこうさいじ)

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葆光彩磁とは

 

 葆光彩磁(ほこうさいじ)

葆光彩磁は板谷波山(いたや はざん1872年〜1963年)による装飾技法です。葆光釉(ほこうゆう)はいわゆるマット釉の一種です。これを施釉して1,230℃で焼成すると、艶消しの効果によって霧が立ちこめたような幻想的な釉調が得られます。

 

葆光とは「光を包む・保つ」という意味を持ち、彩磁は「磁胎に描画・彩色する」技法を指します。つまり磁器の表面に加飾したのち、葆光釉をかけて艶消しをすることで淡い光そのものを表現しています。

 

彩磁で使われる植物や鳥獣などのモチーフは、使う顔料ごとにはっきりと発色します。この上に葆光釉をかけて焼成すると顔料の発色がおさえられ、赤・青・緑・黄など鮮やかな色彩は朝もやの中にあるような自然で柔らかい色調となります。

 

 薄肉彫りと彩色

葆光釉をかけるのは最後の仕上げの段階になります。その前に素地を成形して薄肉彫り(うすにくぼり)という彫作業があります。薄肉彫りとは浮き彫りの一種で、私たちの身近な例では100円硬貨などの貨幣があります。

 

硬貨の表面をみると、数字や模様が薄く浮かびあがって見えますね。ただし硬貨は機械でプレスして作りますので、薄い凹凸の質感が分かれば薄肉彫りのイメージとしては十分です。

 

さて実際の作品はこれを手彫りするわけですが、膨大な時間と労力が必要となります。ただ線を描くだけではなく葉脈の陰影や花びらの立体感、鳥の羽の空気感を表現するため、精緻な彫が施されたあとに素焼きされます。

 

そこに顔料を塗っていきますが、一言で顔料といっても液状・フリット(粉状)があります。液状のものは流れたりはみ出るおそれがあります。そこで色を塗るところ以外は、顔料をはじく防染剤を塗ってから作業を行います。

 

いっぽう粉状の顔料については、塗りたいところに糊剤をつけて真綿や刷毛で粉を撒きます。それ以外の所は和紙を貼ってマスキングしてから彩色します。

 

工房では一色塗るたびに素焼きして、防染剤を焼き飛ばして顔料を焼きつける作業が行われました。ある美術館で波山の作業工程が紹介されていました。そこでは青・緑・赤と複数の色を使う作品の例で、一色塗っては素焼を繰り返した記録が残されています。そして仕上げに葆光釉をかけて本焼成します。

 

このように薄肉彫りによる微細な光と影、彩色の濃淡による遠近感、葆光釉による淡い光の表現。葆光彩磁はこれらが三位一体となった芸術品といえるでしょう。

 

 板谷波山のあゆみ

板谷波山(1872年〜1963年)は茨城県に生まれ本名は嘉七といいます。東京美術学校(現:東京芸術大学)の彫刻科で岡倉天心らから学んだ技術は薄肉彫りに活かされています。

 

卒業後は東京そして金沢で彫刻科の教諭となりますが、1903年に再度上京して陶芸家を志します。東京高等工業学校(現:東京工業大学)で教鞭をとりながら、現在の東京都北区田端(たばた)に窯を築きました。このころから郷里の筑波山にちなんで「波山」と号しています。

 

なお田端は板谷氏にとって第二の郷里ともいえる地です。第二次世界大戦の戦災で工房が全焼したさい故郷の下館に戻りますが、後に田端に工房を建て直すほど愛着を持っていたことがわかります。

 

氏の工房には3つの焚口を持つ丸窯がありました。通称 夫婦窯(めおとがま)と呼ばれた倒炎式の丸窯で、板谷夫妻とロクロ師:深海三次郎が初期の作品を作ります。絵付は奥方のまる夫人による作品もあります。なお深海氏は東京高等工業学校において、窯業科の助手にあたる人物です。

 

 波山と現田市松

1910年、38歳になった板谷氏は新たに現田市松(げんだ いちまつ)をロクロ師に迎えます。石川県小松市出身の現田氏は、53年間の長きにわたり波山工房のロクロ師として作陶しました。その形の美しさは現存する作品たちに見てとれます。

 

さて、板谷氏の作風は1914年(42歳)ごろの作品から「葆光彩磁」の箱書きが見られます。現田氏に成形を託しながら自らは葆光彩磁の完成をみた時期です。

 

氏は初期の彫刻的な彩磁作品と結晶釉をはじめ、葆光彩磁による白磁のほか、薄肉彫りを施した青磁・辰砂・鉄釉や天目など多様な作品を遺しています。その完成度はきわめて高く、後世に残せないと断じた作品は次々に破棄されました。

 

厳しい基準を満たした作品だけが、年間約20点ほど世に送り出されたといわれます。30代から本格的な陶歴がはじまり、現田市松との出会いから葆光彩磁の確立を経て名声を博します。

 

氏は日本古来の意匠にとらわれず、ケシ・紫陽花(あじさい)・チューリップ・アマリリスなど従来使われていない真新しい花を題材にしています。これは明治〜大正時代という近代化が進んだ時代背景にもよります。

 

たとえばヨーロッパ全土に広がったアール・ヌーヴォー様式の西洋陶芸、イタリアのマジョリカ(焼き)、中国の宋〜清代の古陶磁、インドの更紗模様など・・・これらを独自の感性で受け止め、器面に彫りこみました。その母体となる器は現田市松によって作られたもう一つの芸術品といえます。

 

昭和に入ると関東在住の陶芸会「東陶会」顧問、帝国美術院(現:日本藝術院)会員、帝室技芸員、帝展審査員などを歴任。1953年には陶芸家ではじめての文化勲章を受章しています。

 

板谷氏は現田氏に対する信頼と感謝がとりわけ深かったのでしょう。「受章式に現田を同伴したい」と申し出たエピソードが残っています。

 

それから10年、現田氏は1963年に交通事故で他界します(享年79歳)。板谷氏は「両手をもがれた思い」とその死を悼み、くしくもその同年に91歳の生涯を閉じました。

 

板谷氏は自分が生きた明治・大正・昭和の象徴(たとえば輸入された洋花など)を彫刻刀によって作品に刻みこみました。仮に現代であればどのような題材を彫りこんだのでしょうか。

 

没後50年以上が経過しますが、今なお板谷波山は多くの現代作家に影響を与え続けています。その功績は卓越した技術を持ったロクロ師、現田市松の偉業でもあるのです。

 

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