志野と荒川豊蔵

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志野と荒川豊蔵

 

 志野とは

志野(しの)とは志野釉を用いて作られた陶器または技法を指します。志野釉は長石を単味で使う場合がほとんどです。その白さと胎土の緋色(ひいろ)が志野の見どころです。

長石 画像

長石の原石。これを単味で砕いて志野釉にする

 

そのはじまりは安土桃山時代まで遡ります。いわゆる美濃桃山陶(みのももやまとう)の一種であり、産地での分類は美濃焼(みのやき)となります。(参考ページ : 美濃焼(岐阜県東濃地方)

 

当時は中国の白磁に近いやきものが求められていました。その需要にこたえるため志野はおおむね白い陶器を想定して作られました。志野釉の厚いところ薄いところで表情は異なり、表面にはピンホールと呼ばれる小さな穴が無数にあらわれます。

 

また志野には絵が描かれているものもあります。それは鬼板やベンガラで描かれる「鉄絵」のことです。志野釉と鉄絵が大きな特徴であり、素地にも白色にするための工夫がみられます。

 

素地は百草土(もぐさつち)が使われます。百草土は大らかで柔らかい土味と、鉄分が少なく焼き締まりが少ないのが特徴です。鉄分が少なければ志野が目指す白色に焼きあがります。焼き締まりが少ないため、たとえば抹茶碗を手に取ったさいに熱がゆるやかに伝わります。

 

茶が熱すぎず手にじんわりと温かみが広がります。この手取りの心地よさは志野が茶碗として重宝される理由のひとつです。

 

また志野釉が薄いところや徐冷によって「緋色」が出るのも重要な要素です。白と緋色の対比は志野の表情をより豊かにし、鑑賞の際の見どころでもあります。

 

志野の種類は技法・特色によって区別されます。たとえば紅志野、鼠志野、赤志野、練上志野、絵志野など多岐にわたりますが、いずれ個別に紹介していきたいと思います。これら志野焼の大成者として荒川豊蔵(あらかわ とよぞう 1894年〜1985年)がいます。

 

 荒川豊蔵の青年期

荒川豊蔵は現在の岐阜県多治見市に生まれます。10代後半から20代は名古屋で陶器商として審美眼を養い、色絵磁器の製造事業を立ち上げますが失敗しています。そして28歳で画家を志して上京するも断念。京都の宮永東山窯(みやながとうざんがま)の工場長として迎えられます。

 

1925年 荒川氏が31歳のころ、東山窯を訪れた北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)と出会います。魯山人は東京赤坂に星丘茶寮(ほしがおかさりょう)という料亭をプロデュースしていました。そこで使う食器を作るため、1927年 北鎌倉に築いた星岡窯(ほしがおかがま)に荒川豊蔵が招かれました。

 

荒川氏は星丘窯において、魯山人が所蔵する3500点とも言われる膨大な古陶磁をもとに作陶の見識を深めていきます。その後、魯山人とともに名古屋で桃山期の古志野を見ることになります。そこで筍文(たけのこもん)が描かれた筒茶碗の高台にかかる赤土を見て、荒川氏は瀬戸の土ではないと断定しています。

 

 志野陶片の発見

そこから美濃に戻った荒川氏は、可児市久々利大萱(かにし くくり おおがや)の牟田洞古窯跡(むたぼらこようあと)で志野の陶片を発見します。この発見によって久々利大萱は桃山陶の生誕地となります。

 

その陶片には名古屋でみた筒茶碗とおなじく筍文が鉄絵で描かれていました。氏は帰途の月明かりで何度もその陶片を眺めて、志野の再現を心に誓ったといわれています。

筍絵志野の陶片

この発見によって志野は瀬戸(愛知県瀬戸市近辺)ではなく、美濃(岐阜県東濃地方)で作られたことを証明しました。陶磁史の通説を塗り替えたこの発見は、1930年のことで荒川氏が36歳のときの出来事です。

 

その3年後に大萱(おおがや)に窯を築いて、39歳で陶芸家として本格的なキャリアをスタートします。初窯での失敗から試行錯誤を重ね、志野・瀬戸黒・黄瀬戸を従来の知識と経験をいかして再現していきます。窯は桃山期の大窯を再現したもので、土・釉薬・薪についても昔ながらの素材を追求しました。

 

こうして江戸期に途絶えてしまった志野の技法を現代に甦らせました。大萱にある牟田洞(むたぼら)・窯下(かました)・弥七田(やしちだ)の古窯跡は「大萱古窯跡群」(おおがやこようせきぐん)と呼ばれる美濃桃山陶の聖地でもあります。

 

さらに1946年には多治見市の虎渓山町(こけいざんちょう)に水月窯(すいげつがま)を築きます。水月窯は日用使いの食器を主に作るための窯で登窯と穴窯があります。大萱では焼かなかった染付・粉引・赤絵・唐津などの作品が現在も作られています。

 

水月窯は機械を一切使わない工房として知られ、多治見市の無形文化財でもあります。

 

陶片の発見から大萱での美濃桃山陶の再現、水月窯での大衆に向けた日用食器の製作など「志野の豊蔵」以外の一面がみてとれます。氏は1955年その功績によって、国の重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」保持者の認定を受けます。

 

 荒川豊蔵の思い

氏の作風は桃山期の志野を再現するだけではなく独自の技法を付加しています。たとえば鉄分の多い土と匣鉢(さや)を使って全体を緋色に発色させた志野茶碗は豊蔵志野と呼ばれました。または黒一色が定番である瀬戸黒に金彩で木の葉を施したものなど。

 

これら一連の作品群は、古陶の再現にとどまらず荒川豊蔵らしさを随所に散りばめています。

 

その後は信楽・唐津・有田・備前・萩・丹波など名産地を巡り、各地の土と窯で作品を焼いています。有田の今右衛門窯、萩の三輪窯などをはじめ著名な陶芸家の窯で作陶しています。

 

また精力的に作陶する中で川合玉堂(かわい ぎょくどう)、前田青邨(まえだ せいそん)ら日本画壇における巨匠との合作も作られました。

 

氏は古陶の研究・再現のみならず、多様な交流によって自身の作品をよりよいものへと研鑽していったのです。1942年には津の川喜田半泥子(かわきた はんでいし)の呼びかけにより、備前の金重陶陽(かねしげ とうよう)、萩の十代三輪休雪(みわ きゅうせつ)と「からひね会」に参加しています。

 

こうしてみると荒川豊蔵の軌跡にはたくさんの人との出会いがあります。氏の代表作である志野茶碗『隨縁』にはその思いが凝縮しているといえるでしょう。すなわち隨縁(ずいえん)とは「縁にしたがって生きるのが最善である」という意味です。

 

氏はいくつもの作品に『隨縁』の銘をつけたことが知られますが、奥方である志づさんへ贈った志野茶碗『隨縁』がとりわけ印象深いものです。そこには牟田洞で拾った陶片と同じ筍が鉄絵で描かれています。

 

青年期に事業で失敗し画家への志も断念した荒川豊蔵。挫折した時期からほどなく志野を知り、人間国宝まで登りつめたその人生は宮永東山、魯山人をはじめ多くの人との縁に随った賜物ともいえるでしょう。

 

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