唐津焼(叩き)と十二代 中里太郎右衛門(中里無庵)

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唐津焼(叩きの技法)と中里無庵

 

 唐津の技法

唐津焼は豊富な種類の原土と釉薬によってじつに多様な作品が作られています。土は鉄分を多く含むもの・少ないもの、粘りの有無、砂礫の多寡など土味が多岐にわたることで知られます。

 

代表的な釉薬は透明度の高い土灰釉(どばいゆう)と、斑唐津でなじみの藁灰釉(わらばいゆう)、朝鮮唐津の黒釉として知られる飴釉(あめゆう)が挙げられます。

 

土灰とは雑木の灰のことで釉薬は土灰5:長石5くらいの割合です。長石が多くなれば文字通り「長石釉」となります。この場合はおよそ土灰3:長石7くらいでしょうか。透明な釉の中に部分的に長石の白が発色します。

 

藁灰釉は斑唐津のほか、朝鮮唐津の白釉としても使われます。藁の灰が主体で長石・土灰を混ぜて作ります。また、飴釉は酸化鉄をふくむ鉄釉の一種で黒褐色に発色します。

 

装飾技法としては鉄絵が代表的なものです。絵唐津は鬼板など鉄を含む材料で描かれます。また、刷毛目など化粧土による装飾技法も一般的なものといえます。

 

唐津焼の作りはロクロ・手びねり・叩きづくり・板状の粘土を使ったタタラ作りなどがあります。中でも特徴的なのは叩きづくりです。

 

 叩きづくりとは?

叩きづくりは古来から行われる成形技法のひとつです。日本では弥生時代の土器や、古代の須恵器に叩きづくりの跡が見受けられます。唐津では16世紀の古唐津の甕や壺に見られる特徴です。唐津で最初の窯といわれる飯洞甕窯(はんどうがめがま)の出土品にも叩きの跡があります。

 

作業概要はまず内側に同心円を彫りこんだ当て木を添えます。そして格子状の模様を彫りこんだ板で、外側を叩くと土が締まりながら変形せずにすみます。この作業によって外側には叩き板の跡、内側には同心円の模様が残ります。

叩き道具

左が内側にそえる当て木。右は外側を叩く板。板に紐を巻き付けても良い

 

当て木と叩き板に彫りを入れる理由は、粘土を叩いたあとに剥がれやすくするためです。どうしても平らな板で叩くと粘土に貼りついて作業がしづらいわけです。なお材料には土離れのよい松材が好まれます。

 

叩きづくりによって粘土はより固く締まり、焼成時の変形や歪みなどのトラブルが低減します。叩きの名手としては十二代 中里太郎右衛門(なかざと たろうえもん 1895年〜1985年)が挙げられます。唐津焼で初めての人間国宝として知られます。

 

 古唐津を知る

1930年 美濃の荒川豊蔵(あらかわ とよぞう)が志野の破片を発見して、世間の人々は桃山陶へ関心を持つようになりました。このころ中里氏は岸岳(きしだけ)地方の古窯調査を行い、帆柱(ほばしら)古窯で斑唐津や絵唐津の陶片を目の当たりにします。まだ十二代を襲名して間もないころでした。

 

中里家は江戸時代から続く陶家で藩の御用窯でした。唐津焼は江戸時代に入ると素朴な土味と温かみのある釉調から転じ、幕府に上納する献上唐津(けんじょうからつ)や鉄・銅を用いた二彩唐津(にさいがらつ)が作られます。これは近隣の有田焼の隆盛によって唐津焼の需要が減ったためといわれます。

 

献上唐津は染付・象嵌の技法が使われた磁器よりの作風で、自然情緒あふれる古唐津とは一線を画します。また二彩唐津は色彩の織りなす美しさはあるものの、素朴な味わいは古唐津に分があります。ともに優品が伝世しますが古唐津とはまた違った唐津焼といえます。

 

中里氏は古唐津の破片を見つけてから、自分が作る献上唐津を疑問視しています。本当にこれで良いのかと。そして代々作り続けた献上唐津・細工物ではなく桃山〜江戸はじめの古唐津の再現を目指す決心をします

 

大正〜昭和はじめの日本は不況にあえぎ、中里氏が十二代を襲名したときに苦境を救ったのは古館九一(ふるたち くいち 1874〜1949)です。実業家で古唐津研究家であった古館氏は、中里家に経済的援助を行ったほか、古唐津の陶片コレクションをもとに様々な助言をしています。

 

 中里太郎右衛門の技法

それから斑唐津・朝鮮唐津・絵唐津の再現に成功した中里氏は、紐づくりで積んだ作品を叩きの技法で成形しました。おもに甕や水差などは紐状の粘土を輪積みにし、前述の当て木と叩き板で締めていきます。

 

叩くことでつなぎ目は消えて粘土はしっかりと締まります。叩いた模様は装飾として活かせますので作品に表情が出ます。薄造りでも強度があって効果的な装飾も施せる技法です。叩きながら膨らませて形を作り、土の乾燥を待って少しづつ紐状の粘土を積み上げていきます。

 

作品は上記の大物のほか茶碗やぐい呑みなどの酒器が挙げられます。ロクロと手びねりによる作品は桃山唐津の古格を備えています。古館氏の協力によって中里氏は膨大な数の陶片を見ています。古唐津の土味・作りを直に見ている強みが活きています。

 

氏は失われた唐津の技法と作風を現代に甦らせました。1969年に隠居して「無庵(むあん)」と名乗ります。そして1976年に国の重要無形文化財「唐津焼」の認定を受けました。

 

無庵は晩年その生涯を振り返ってたくさんの人々の協力に支えられたと述懐しています。それは古館九一ら後援者のほか石黒宗麿、小山富士夫、川喜多半泥子、加藤土師萌、加藤唐九朗。唐津焼をめぐる巨匠たちとの交流と実践が今日の流れを作ったともいえるでしょう。

 

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